第6回 友人の妹

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事情に駆られて婚礼を急ぐ人ほど不幸な者はいないだろう。しかしながら今の世に中にはこういうことを聞く人もそのような事情を不思議には思わないようだ。奥さんは客の心を察したような顔つきで「そうですねー、だれか貴君にふさわしい娘さんがあるとちょうどいいのですけれども、誰かいないかしらん。あの中川さんのお妹子さんが去年の暮れにお国から出ておいでになったそうです。貴君はまだご存じありませんか」

「イエ、一向に知りません。中川君も大学以来の友達で国に妹があるということは聞いていましたが今度東京に呼んだのでしょうか」

「ハイ、そうだと見えます。暮れにうちのが中川さんへ参ったら中川さんがお引き合わせになったそうです。お国は長崎で料理のことはたいそう進んでいるところですのにそのお妹子さんは神戸や大阪にいらっしゃってよほど料理がお上手だそうです。主人はその時お妹子さんのおこしらえになった豚料理をおごちそうになりまして、非常に美味しかったと帰ってきてもうしました。私にもぜひそのお料理を覚えるようにと言いつけられましたから暇なときに教わりに参るつもりです」と聞いたとたんに客は膝を進めて

「それは耳寄りです。僕の希望は料理のできる女房を持って美味い物を食べたいというのです。ほかの欲はありません。僕の楽しみはただ食べることばかり。人間は三度の食事をおいしく食べるほど幸福なことはありますまい。衣食住と言いますけれども衣服は木綿でも済みますし、家も大概で我慢ができます。三度の食事は一番体に直接のことですから、こればかりは力を尽くさなければなりません。西洋人は生活費の半分以上を食物に費やすと聞きましたが、日本人は生活費の半分以上を無駄な遊びに費やします。僕が女房を持ったら毎日相談して美味いものをこしらえて二人でおとり膳それを食べるのが何よりの楽しみにしたいのです」

「オホホ、おとり膳までおっしゃらなくてもいいではありませんか」

「マア、そのくらいは意気込みですから料理法に長じた女房を持ちたいと思っていました。中川君の妹は僕の注文通りです。長崎や鹿児島では娘に料理法を仕込むのが親の役目だと聞きましたが、その上に神戸や大阪で研究したのなら申し分ありません。中川君は美男子だから妹子さんも悪くないでしょう」

「私はまだお会いしてませんけれども主人の話では器量も好いそうです。中川さんよりもっと良いくらいだともうしました」

「それならなおさらだ、年頃は」

「二十一、二くらいだそうです」

「どうでしょう、その妹さんが僕の所へ嫁に来てくれるでしょうか。奥さんひとつ僕の橋渡しになって先方の心をきいてくださいませんか」

「たいそうお気の早いこと。中川さんは貴君のお友達ですからともかく中川さんのうちへ行ってその妹子さんに会ってご覧なさい。お会いなすった上で是非貰いたいとお思いになったら、ご自分でおっしゃりにくいでしょうから私が橋渡しをしてもようございます」

「ハイ、参りますとも。そんなことがなくでも、今日はこっちから中川君のところへ回るつもりでした。では早速中川君の家へ出かけましょう。今のことは何分よろしく」と、大急ぎで出ていく。奥さんは送り出して「ホントに罪のない人ね」と声を上げて明るく笑った。

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彼のハートをつかむには胃袋をつかめと、よく言われます。

つい先日、国民的独身男性歌手がついに年貢を納め、全国の女性ファンが喪に服したというのは記憶に新しいニュースですが、その方もどうやら胃袋をつかまれたとか。

しかしながら、私が一時暮らしていたタイのバンコクの様に、外食屋台文化が中心の東南アジアでは彼女の手料理というのは全然結婚の条件に入らないし、彼のために手料理をという彼女の話もほぼ聞いたことがありません。私はちょこっと料理講師などしておりますが、バンコクで教室はできないかと思って、それとなくそのあたりの事情を探ったら、お金持ちが多い友人周辺からは自分も友人たちも「料理しないしなあ」と言われました。結婚するのに料理上手がポイント高いというのは日本とイタリアだそうです。日本女性はなかなか大変ですね。

さて、積極的に胃袋をつかまれたい大腹、もとい、大原ですが、彼の新婚家庭の妄想が「毎日相談して美味いもんをこしらえて二人おとり膳でそれを食べる」というものなのが確かに罪がなく、ほほえましく、ある意味現代的で驚きました。

このころの食卓風景はお膳、あるいは箱膳と呼ばれるめいめいのものに一人前ずつ供する形であるのに対し、おとり膳というのは一つのお膳で差し向かいに食べる形です。ニュアンスとしては二つお膳が用意できない状態でさしつさされつというちょっと艶っぽい状況や、きちんとしたお膳も用意できないちょっとわびしい状況、という感じを含んでいますが、大原はもちろん前者の幸福な食事を夢見ています。妻と二人で同等に食事をとる、自分も食事内容の決定、調理に参加して、二人で決める、こしらえるというのは「私には食欲だけ」と断言する大腹が期せずして語った家庭人としての優しさ、家長が存在して、何かにつけ階層性を重んじた「家」的思考に対して「家庭」というプライバシーを大切にする先進性を表わすものでしょう。ここには明治も30年になり、もはや幕末から明治維新の激動の時代は終わりをつげ、20世紀に生きる新しい都市生活者の姿が描かれているのだと思います。

ちなみにこのころよりちゃぶ台で食事をとる家庭が出始め、15年後大正になると食卓風景はめいめいのお膳からちゃぶ台で取る家庭の方が多くなります。

そこで、次回はどうやら料理上手な花嫁候補が登場するようですが、その前に、新婚さんのメニュウランキング。ネットでざっと調べたところ、投稿レシピサイトの「彼が作ってほしいメニュウ」1位カレー2位肉じゃが3位ハンバーグ。「新婚さんにお勧めメニュウ」1位肉じゃが2位ハンバーグ3位きんぴら。同じく、別のランキングで「男子が作ってほしい」メニュウ1位カレー2位肉じゃが3位オムライス。どうも平成も20年以上過ぎたというのに、どれもこれも変わり映えしませんねー。本当かしら?こんなに世界中の料理があふれているのに作りたい方も作ってもらいたい方も相変わらずの肉じゃが信仰が生きているようです。カレーや肉じゃがで男が釣れるならみんな苦労しないように思うのですが。もしかしてそれしか料理の名前を知らない…なんてことはないですよね。

というわけで、世の流れを知らず我が道をゆく私が、新婚一日目に作った長ネギのマリネ。

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本当はリーキで作るらしいのですが、なかったので長ネギを使いました。
お鍋に入る長さに整えた長ネギをコンソメキューブを入れたひたひたの水で柔らかくなるまで煮ます。オリーブオイル、白ワインビネガー、塩、こしょうでフレンチドレッシングを作りあら熱が取れた長ネギを漬け、冷たく冷やしてどうぞ。

 

もう25年近く前になりますので、メインのお肉料理に何を作ったかは定かでありませんが、付け合せにこの長ネギのマリネを作ったことはよく覚えています。

スープに浮かせるクルトンを、あぶらで揚げるのではなく小さく切ったパンに油を塗ってオーブントースターで焼く、というのを本で読んで、やってみたところ、どのくらい焼けばいいのかなーと見ている間に煙がもくもく・・・オーブントースターが火を噴いて、思わずそこにあった長ネギを突っ込んで叩いて消しました。ところが、ばしばし叩いたので小さいパンが、火種を付けたまま飛び散って、まだ片付いてなかった段ボールの中に落ちたり、台所マットの上に落ちたりして、あちこちから小さい火が上がり…。ぼうぼう燃え始めた段ボールを持って裏口から外に出て、急いで箱を裏庭の水場に投げ捨て、チロチロと燃え始めたマットの火にその辺にあった器で水をくんでじゃーっとかけて事なきを得ました。いやー驚きました。でも意外と冷静だった自分にも驚き、あとからドキドキしてきました。馬鹿ですね。

結婚一日目、会社から帰ったら「おうち燃えてなくてよかったねー」という妻に夫はさぞかし驚いたことでしょう。びっくりぽんです。

つづく