第7回 大食家

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中川と呼ばれているのは2年ほど前に大学を卒業し、今はある文学雑誌の編集に従事している人物だ。下宿住まいも不自由だということで去年新たに家を借り、下女を雇って世帯を任せていたが、これも何かに不便が多いので、国元より妹を呼び寄せて女房のできるまで家事を任せ、適当な相手ががあれば東京で嫁入りさせようという考えである。兄の中川は年始回りより帰って来て衣服を着替え「お登和や今日の豚料理はどうだね、美味しくできたかい」ときいた。

「ハイ、先日よりも良くできました。暮れに小山さんとおっしゃるお方がいらっしゃった時のは肉が悪いせいでございますかまことに不出来でしたが今日のはお兄さんが好い肉をお探し下すったおかげで核になんぞは長崎でこしらえるように出来ました」

「そうか、それは何よりだ。よそで頻りに夕飯を食べて行けと勧められたけれどもお前の料理が出来ているだろうと思って何も食べずに戻ってきた。そんなにうまく出来たら誰かを呼んで御馳走したいね。ご馳走しても張り合いのある人に食べさせたいが、エート、もしや私の不在中に大原満(おおはらみつる)という人は年始に来なかったかい」「イイエ、まだお見えになりません」

「では今に来るかもしれない。その大原というのは同じ学校にいた友達だが校内随一の健啖家で、その男の、物を食べるのには実に驚く。賄征伐(まかないせいばつ=寮の食事などで、残った食事を食べてかたずける)をやるときにはひとりで七、八人前を平らげるという剛の者だ。鰻の丼なら三つ以上五つぐらい食べなければ承知しない位の大食家だ。あの男にお前のこしらえた豚料理をご馳走したらさぞ喜んでたべるだろう。どうだね、御馳走はたくさんあるかい」

「ハイ、もしやお客様でもあるかと思って二、三人前は余分をこしらえておきました。それに残りましてもみんな二、三日は持ちますから」

「それならいいが、しかし、大原にウンと食べられたら二、三人前では足りないかもしれん。少なくとも五人前くらい用意しておかなければ安心できない」

「オホホ、大変なお方ですね。定めしお体も大きくっていらっしゃいましょう」

「イイヤ、体も大きくはない。太ってはいるがむしろ小男の部類だ。その代わり腹ばかり太鼓のように膨れている。ビールの看板にありそうなゆったりとした腹を持っていて普通の洋服ではボタンが合わないで仕立て屋がズボンの仕立てに閉口するくらいだ。その大きな腹は残らず胃袋だから驚くさ。外(ほか)の人の体は五臓六腑の中に胃袋もあるというのだけれども、あの男の腹は胃袋の周囲に外の臓器が居候しているようだ。難にしろあの男に豚料理を食べさせたいよ。はやく来ればいいな」

「もしや外でご飯を召し上がっていらっしゃるといけませんね呼びに行っておあげになったらいかがです」

「まだ下宿生活をしている人間だから今頃家にいる気遣いはない。ことによったら小山君のところへ寄ってそれからここへ来るかもしれない。オヤオヤ来たぞ、門の外にバターリバターリと重そうな足音が聞こえる。あれは大原に違いない。腹が大きくて速く歩けないから急ぐときでも豚が歩くようだ」と噂を聞いて興味を持った妹は、どんな人なのだろうかと好奇心から早く見たくなり、窓の格子戸へ顔を当てて「兄さん、きっとそうでがざいますよ」と言った。

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朋友中川の料理上手な妹に逢おうと心急ぐ大原満、ひどい言われようですが、大きなおなかをゆすりつつやってきたようですね。でも大食漢大原ことをあれこれ言う中川に悪意はなさそうです。あくまで料理をその趣旨を理解しつつたくさん食べてくれることが大切。妹の料理の価値も分かってくれるだろうと、そういう意味で中川も料理自慢です。

この中川、作者の弦斎がモデルのようです。そして妹のお登和さんは弦斎ご自慢の十七歳年下の妻、多嘉子がモデルと言われています。


というわけで、豚料理です。

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江戸から明治で肉食が解禁普及していったのは、まず牛肉で、豚肉をたべることも、中華料理も一般的ではありませんでした。この時代、肉と言えば(江戸時代から食べられていたイノシシなどの獣肉食は除き)牛肉で、その牛肉にしても、ご食事と言えば、ご飯とみそ汁、お漬け物、おかずも野菜の煮物、魚といった一般庶民の食事とはまだ距離がありました。孫引きですが、昭和女子大学食物学研修室編『近代日本食物誌』によると、牛肉と豚肉が対等に扱われるようになるのは明治末期とのこと。豚肉は臭いと思われて敬遠されていたようです。

また、中華料理というものも南京街の中国から来た人々の料理という感じで、まだ一般的ではありません。日本における中華料理の歴史にも興味深いものがありますが、家庭に普及したのは、戦後NHKの今日の料理で、活躍した陳健民さんの力も大きいと思います。

ちなみに昭和40~50年代西日本でに子供時代を過ごした私は、うちで食べる肉と言ったら牛肉で、豚肉餡の入った中華まんはぶたまんと呼んでいましたし、大学進学で上京して初めて豚の生姜焼きを食べて感激しました。

確かに、豚肉、特にばら肉のような厚い脂が覆っている部位はしっかり下茹でして脂を落として、きれいに洗い、それから調理するのが臭みを取るコツと言えましょう。

そんななじみのない豚を軽々と調理するお登和嬢は長崎出身。長崎は鎖国中の日本において海外と接する唯一の窓口、肉食、砂糖をはじめ、豊かな食材、外国の料理法を体験できる場所として日本では食の最先端の土地であったのだと思います。前回の第6話でもお登和嬢が長崎出身であることがお嫁さん候補として大きなポイントになっています。その和洋中が混ざり合い、異国情緒豊かなそれらの料理は長崎の郷土料理、卓袱(しっぽく)料理として旅行者の目と舌を楽しませています。

 

そうして時代は流れ、現在我が家で作る煮豚と言えばこれ、タイ料理の「ムー・カイ・パロー」です。もともとは中華料理の煮豚から来たのだと思いますが、豚ばら肉と玉子をシナモンや八角パクチーコリアンダー)の根っこの入った甘辛い煮汁でこっくりとたいたもの。さらりとしたタイのジャスミンライスにかけていただくと、気分はバンコクの屋台です。

難しく考えないで、スーパーで売っている煮豚のたれに、八角やシナモンを入れて炊けばかなりそれらしくなります。お好みでパクチーを添えて召し上がれ。

 

豚肉が珍しく、敬遠されていた時代から、中華料理が普及するのに50年。家庭でタイ料理を作るようになるまで、約100年ですね。

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つづく