第6回 友人の妹

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事情に駆られて婚礼を急ぐ人ほど不幸な者はいないだろう。しかしながら今の世に中にはこういうことを聞く人もそのような事情を不思議には思わないようだ。奥さんは客の心を察したような顔つきで「そうですねー、だれか貴君にふさわしい娘さんがあるとちょうどいいのですけれども、誰かいないかしらん。あの中川さんのお妹子さんが去年の暮れにお国から出ておいでになったそうです。貴君はまだご存じありませんか」

「イエ、一向に知りません。中川君も大学以来の友達で国に妹があるということは聞いていましたが今度東京に呼んだのでしょうか」

「ハイ、そうだと見えます。暮れにうちのが中川さんへ参ったら中川さんがお引き合わせになったそうです。お国は長崎で料理のことはたいそう進んでいるところですのにそのお妹子さんは神戸や大阪にいらっしゃってよほど料理がお上手だそうです。主人はその時お妹子さんのおこしらえになった豚料理をおごちそうになりまして、非常に美味しかったと帰ってきてもうしました。私にもぜひそのお料理を覚えるようにと言いつけられましたから暇なときに教わりに参るつもりです」と聞いたとたんに客は膝を進めて

「それは耳寄りです。僕の希望は料理のできる女房を持って美味い物を食べたいというのです。ほかの欲はありません。僕の楽しみはただ食べることばかり。人間は三度の食事をおいしく食べるほど幸福なことはありますまい。衣食住と言いますけれども衣服は木綿でも済みますし、家も大概で我慢ができます。三度の食事は一番体に直接のことですから、こればかりは力を尽くさなければなりません。西洋人は生活費の半分以上を食物に費やすと聞きましたが、日本人は生活費の半分以上を無駄な遊びに費やします。僕が女房を持ったら毎日相談して美味いものをこしらえて二人でおとり膳それを食べるのが何よりの楽しみにしたいのです」

「オホホ、おとり膳までおっしゃらなくてもいいではありませんか」

「マア、そのくらいは意気込みですから料理法に長じた女房を持ちたいと思っていました。中川君の妹は僕の注文通りです。長崎や鹿児島では娘に料理法を仕込むのが親の役目だと聞きましたが、その上に神戸や大阪で研究したのなら申し分ありません。中川君は美男子だから妹子さんも悪くないでしょう」

「私はまだお会いしてませんけれども主人の話では器量も好いそうです。中川さんよりもっと良いくらいだともうしました」

「それならなおさらだ、年頃は」

「二十一、二くらいだそうです」

「どうでしょう、その妹さんが僕の所へ嫁に来てくれるでしょうか。奥さんひとつ僕の橋渡しになって先方の心をきいてくださいませんか」

「たいそうお気の早いこと。中川さんは貴君のお友達ですからともかく中川さんのうちへ行ってその妹子さんに会ってご覧なさい。お会いなすった上で是非貰いたいとお思いになったら、ご自分でおっしゃりにくいでしょうから私が橋渡しをしてもようございます」

「ハイ、参りますとも。そんなことがなくでも、今日はこっちから中川君のところへ回るつもりでした。では早速中川君の家へ出かけましょう。今のことは何分よろしく」と、大急ぎで出ていく。奥さんは送り出して「ホントに罪のない人ね」と声を上げて明るく笑った。

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彼のハートをつかむには胃袋をつかめと、よく言われます。

つい先日、国民的独身男性歌手がついに年貢を納め、全国の女性ファンが喪に服したというのは記憶に新しいニュースですが、その方もどうやら胃袋をつかまれたとか。

しかしながら、私が一時暮らしていたタイのバンコクの様に、外食屋台文化が中心の東南アジアでは彼女の手料理というのは全然結婚の条件に入らないし、彼のために手料理をという彼女の話もほぼ聞いたことがありません。私はちょこっと料理講師などしておりますが、バンコクで教室はできないかと思って、それとなくそのあたりの事情を探ったら、お金持ちが多い友人周辺からは自分も友人たちも「料理しないしなあ」と言われました。結婚するのに料理上手がポイント高いというのは日本とイタリアだそうです。日本女性はなかなか大変ですね。

さて、積極的に胃袋をつかまれたい大腹、もとい、大原ですが、彼の新婚家庭の妄想が「毎日相談して美味いもんをこしらえて二人おとり膳でそれを食べる」というものなのが確かに罪がなく、ほほえましく、ある意味現代的で驚きました。

このころの食卓風景はお膳、あるいは箱膳と呼ばれるめいめいのものに一人前ずつ供する形であるのに対し、おとり膳というのは一つのお膳で差し向かいに食べる形です。ニュアンスとしては二つお膳が用意できない状態でさしつさされつというちょっと艶っぽい状況や、きちんとしたお膳も用意できないちょっとわびしい状況、という感じを含んでいますが、大原はもちろん前者の幸福な食事を夢見ています。妻と二人で同等に食事をとる、自分も食事内容の決定、調理に参加して、二人で決める、こしらえるというのは「私には食欲だけ」と断言する大腹が期せずして語った家庭人としての優しさ、家長が存在して、何かにつけ階層性を重んじた「家」的思考に対して「家庭」というプライバシーを大切にする先進性を表わすものでしょう。ここには明治も30年になり、もはや幕末から明治維新の激動の時代は終わりをつげ、20世紀に生きる新しい都市生活者の姿が描かれているのだと思います。

ちなみにこのころよりちゃぶ台で食事をとる家庭が出始め、15年後大正になると食卓風景はめいめいのお膳からちゃぶ台で取る家庭の方が多くなります。

そこで、次回はどうやら料理上手な花嫁候補が登場するようですが、その前に、新婚さんのメニュウランキング。ネットでざっと調べたところ、投稿レシピサイトの「彼が作ってほしいメニュウ」1位カレー2位肉じゃが3位ハンバーグ。「新婚さんにお勧めメニュウ」1位肉じゃが2位ハンバーグ3位きんぴら。同じく、別のランキングで「男子が作ってほしい」メニュウ1位カレー2位肉じゃが3位オムライス。どうも平成も20年以上過ぎたというのに、どれもこれも変わり映えしませんねー。本当かしら?こんなに世界中の料理があふれているのに作りたい方も作ってもらいたい方も相変わらずの肉じゃが信仰が生きているようです。カレーや肉じゃがで男が釣れるならみんな苦労しないように思うのですが。もしかしてそれしか料理の名前を知らない…なんてことはないですよね。

というわけで、世の流れを知らず我が道をゆく私が、新婚一日目に作った長ネギのマリネ。

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本当はリーキで作るらしいのですが、なかったので長ネギを使いました。
お鍋に入る長さに整えた長ネギをコンソメキューブを入れたひたひたの水で柔らかくなるまで煮ます。オリーブオイル、白ワインビネガー、塩、こしょうでフレンチドレッシングを作りあら熱が取れた長ネギを漬け、冷たく冷やしてどうぞ。

 

もう25年近く前になりますので、メインのお肉料理に何を作ったかは定かでありませんが、付け合せにこの長ネギのマリネを作ったことはよく覚えています。

スープに浮かせるクルトンを、あぶらで揚げるのではなく小さく切ったパンに油を塗ってオーブントースターで焼く、というのを本で読んで、やってみたところ、どのくらい焼けばいいのかなーと見ている間に煙がもくもく・・・オーブントースターが火を噴いて、思わずそこにあった長ネギを突っ込んで叩いて消しました。ところが、ばしばし叩いたので小さいパンが、火種を付けたまま飛び散って、まだ片付いてなかった段ボールの中に落ちたり、台所マットの上に落ちたりして、あちこちから小さい火が上がり…。ぼうぼう燃え始めた段ボールを持って裏口から外に出て、急いで箱を裏庭の水場に投げ捨て、チロチロと燃え始めたマットの火にその辺にあった器で水をくんでじゃーっとかけて事なきを得ました。いやー驚きました。でも意外と冷静だった自分にも驚き、あとからドキドキしてきました。馬鹿ですね。

結婚一日目、会社から帰ったら「おうち燃えてなくてよかったねー」という妻に夫はさぞかし驚いたことでしょう。びっくりぽんです。

つづく

 

 

 

第5回 嫁捜し(よめさがし)

新聞小説を追いかけるブログに休日はない!の意気込みでしたが、2,3日開いてしまいましたね。気を取り直して、続けます。
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珍しい御馳走に客はおなかが膨れ、もうたくさんというほど食べた。

「奥さん、あんまり美味しいので三杯も平らげましたが、軽いといっても南京豆は脂肪に富んだものですから、胸が焼けて気分が重たくなってモー動けません。困ったな」と、さも苦しげに見える。奥さんは含み笑いをして、

「お茶を差し上げましょうか、随分たくさんお汁粉を召し上がりましたもの。ご気分が重ければモー一度おやすみなさい。枕をお貸ししましょう。田舎では人にお餅を沢山ご馳走してその後で枕を出すところもあると言いますが、そういう時には無理に身体を動かさないで静かに臥て(ねて)いらっしゃ方がようございます。まあ、ごゆっくりとお遊びなさい、どうせ御用もないのでしょう」

「イイエ用事は大ありです。今日は平生知った人の家へ残らず年始回りに歩きたいと思うので」

「それは大変なご努力ですね。うちの人なんぞは年始回りがイヤだと申して近場の旅行に伊豆あたりまででかけました」

「僕も努力して年始に回るわけではありません。少々ほかにねらいがあるのです。というのは外(ほか)でもないですが、多くの家へうかがって良い嫁を探したいと思うので」

「おやまあ油断がなりませんね、貴君はモーそんな野心をお起こしになったのですか。うちの人の言うには貴君は大食家で有名だけど品行はお堅くて今まで一度も悪い噂を聞いたことがない、あれは関心だと申しておりました。モー2,3年過ぎてからでようございましょう」

「僕も急に欲しくなったわけではありませんが少し急ぐべき事情があるのです。僕がぐずぐずしていると国元から押しかけ女房がやって来そうなので」

「そんなお方がおありになるのですか」

「外でもありません僕の従妹(いとこ)です。そもそも僕の家は分家で従妹は本家の娘ですが、僕の学資を半分ずつ本家から助けてもらった恩もあり、もしやその娘を貰ってくれろといわれたら断るのに困ります。まだ特に親の口からも叔父の口からも何という相談が来たわけでもありませんが僕の親と向こうの親との間にその下心無きにしも非ずというのを、一昨年、帰省した時察したのです。それに僕もお情けながら大学を卒業して文学士とか何とか肩書がついてみれば国元のような片田舎では鬼の首を取ったように思うのです。ヤレ卒業祝いをするから帰って来いの、一族郎党村中の名誉だから一度帰れと頻りに催促が来るのですが、うっかり帰ると忽ち(たちまち)嫁の相談となってその従妹を押し付けられるに違いないから僕は国へも帰りません。なるべくこっちで好い嫁を貰って、その後に帰りたいと思います」

「それならばなお結構じゃありませんか。その方をお貰いなすったらよいでしょうに」

「それがね、特別に悪い女というほどでもありませんが奥州の山の中で育った田舎娘です。教育もなければ礼儀も知らず、体はと言ったら僕より大きいほどの大女、赤ら顔で縮れっ毛で団子鼻のどんぐり眼と来ていますから何ぼ何でも東京へ連れてきて僕のワイフです、と人の中へ出せません。国元の方から何とも言ってこない内にこっちで早く好い嫁を決めてしましたいのです。奥さんどうかお世話をして下さらないか」と、今の若い人にこういう事情があることがよくあるのだ。

 

○海苔汁粉というものあり。それは、餅を小さく切り、こんがりと焼き、湯に漬してやわらかくし、椀に盛って大根おろしをかけ、砂糖を少し振り、焼き海苔を細かく揉んで醤油を少し掛けて食す。

○味噌餅は餅を柔らかく茹でておき、別に赤味噌を擂り酒と砂糖で味付けして裏ごしたものを、一旦煮立てて餅の上にかけて椀のふたをする。少し蒸らして食す。

***************************************失礼な奴ですねー。大原は。

小太りでどんぐり眼で悪かったわね!あんたなんかこちらからお断りよ!って私じゃなかった。

さて、末は博士か大臣か、当時の学士様の価値とはいかほどのものであったか。

大学進学率50%、とか、少子化による無試験入学とか、定員割れとか凋落はなはだしい昨今の大学とはわけが違います。食道楽の舞台は東京なので、ここに言う大学は東京帝国大学であろうと思いますが、1877年設置1886年帝国大学令により帝国大学となりました。1897年に京都に京都帝国大学ができるに当たり、東京帝国大学という名称になりましたが、それまで大学といえばここだけ。1877年からの20年間日本唯一の大学として、ただ「帝国大学」と呼ばれていたのですから、その価値とは今と比べものにはなりませんね。一族のめぼしい子供を親戚が支えて学資を援助するとか、また篤志家が見どころのある有為の青年を援助して大学進学を助けることは珍しいことではありませんでした。成績がおぼつかなかろうが、何年かかろうが、とりあえず大学を卒業した大原は一般庶民から見れば高嶺の花。政府のお役人になり、将来安定の有望株なのでしょう。故郷のご本家では分家の長男に援助して大学を出したからにはうちの跡取りになってもらおうという考えがあっても全然不思議ではありません。それゆえ大原は心配もしているというところです。
結婚そのものは家と家との取り決めであったり、自由であったり色々ですが、家長の判断で、嫁がされたり戻されたりするため意外に離婚率も高かったのでした。
結婚年齢も概して男性は遅く、一家を構え充分暮らしていける稼ぎがあるか(というのも階層にもよりますが、政府のお役人クラスの家では奥さんは専業主婦、家事をする女中が2,3人、もしかしたら書生で住み込みの男子学生か下働きの爺やが一人くらいはいるかもしれません。慰みに猫のたまとか、趣味の秋田犬五郎丸とかを飼ったったとして、さらに子供が数人生まれたら、それらを全員食べさせていかねばなりませんから)、功成り名を立てしっかりした資産ができてからというかんじ。

大原に対してもこの奥さんはもう2,3年してからでも、と言ってます。

ちょっと待って、大原は大学出るのに何年かかってるの?田舎から出てきて予備校に入り、それから20歳くらいで帝国大学に入り、同期に送れること数年。7、8年学んで卒業したとして28歳。最初に年のころ32、3歳と紹介されてます。それをさらに待てと言われて、35,6・・・に対し、新婦は二十歳そこそこ。しかしながらこのくらいの年の差婚も普通のことでした。

そして、明治期の女学校では卒業を待たずに結婚のため退学する生徒もおり、美人は概して途中でいなくなることから、卒業までいけそうだという意味の卒業面(そつぎょうづら)という言葉までできたそうです。失礼な!
また、現代からすれば昔の方が貞操堅固で、処女性重視で、さぞ箱入りだろうというイメージですが、女学校には一旦結婚して、夫が自分の寛容性を示すためや、一応結婚はしたもののまだ若く教養を身に着けさせなければならないという考えから女学校を続けさせたり、婚約者がいる生徒たちもいて年齢もまちまちだったりするので、在校生の性に対する敷居が低く、かんたんに男性にだまされてしまうなど、キリスト教系の女学校では、生徒の貞操観念のなさに頭を痛めるという記録があります。いつの時代もでも女の子は耳年増でおませなのです。まあ上流階級ほど乱れている、ということはよくあることでしょう。

 

というわけで、写真は京都の京菓子資料館でひろった「島台」の図。

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島台って最近あまり見ませんが、よく菓子博覧会とか、ホテルのロビーとかにある、工芸菓子で、州浜をかたどった曲線の大きな脚付きの台の上に築山があって、松竹梅やほかの草花が植え込んであるおめでたい装飾のお菓子です。

平安時代に婚儀や儀式関係なく、不老長寿の蓬莱山をかたどった飾り物としてあったものが、様々な趣向を取り入れ、いつしか州浜をかたどった台に蓬莱山をかたどった築山と景色をとりいれたものとなったようです。格式のある婚儀や結納の室礼には欠かせないものとされていましたが、結納の水引細工の蓬莱飾りすらあまり見なくなった今では、これをお菓子屋さんに頼んで作らせ、飾る個人のお家はほとんどないように思います。素晴らしい和菓子の技術の保存が気になります。資料館にはこの図の何倍も大きな素晴らしい『華燭』という作品が飾られていました。撮影禁止でお見せできないのが残念です。

 

今、「華燭」と書こうとして、私のPCは「過食」と変換してくれました。そういう時代なのですね。

 

つづく

 

 

 

 

第4回 南京豆

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台所といえば黒くくすぶってむさくるしいように聞こえるが、この家の台所は奥さんが自慢顔に客を連れ込むほどのことはあって、へいぜいからきれい好きなのであろうと思われ、拭き掃除も行き届きかまども板の間も光り輝くばかりである。その代わり目の回るほど忙しいのは下女の仕事だ。一人はしきりに南京豆を焙烙で炒り、一人は擂鉢で搗き砕いていた。

奥さんは客に振り返り、「大原さん、私どもでは毎日南京豆を色々な料理に使います。今まで胡桃を使う代わりに南京豆、胡麻を使う代わりにも南京豆、胡麻和えというところにも南京豆和えという風にしますが、南京豆のほうが胡桃より淡白で、場合によると胡麻よりもよほど美味しゅうございます。もっとも南京豆の中でも粒の極く大きいものや丸い恰好の者は脂肪が多くって油を取るにはようございますけれども食用に適しません。少し細長い中くらいな粒のでたいそう美味しい種類があります。それをまず、厚皮を剥いて中の実ばかりをこの通り焙烙で炒ります」

「なるほど、この匂いが今私の鼻を衝いた(ついた)のですね。町で売ってる南京豆は厚皮のまま炒ってあるではありませんか」

「あれは細かい砂を交ぜて砂と一緒に炒るのです。非常に時間がかかって家庭の料理には合わないので、簡単にして剥いたものを炒りますけれども、これも強い火で炒ると外が焦げて中に火が通りません。弱い火で気長にいるのです。良く炒れた南京豆を冷まして手で揉むと渋皮が楽に剥けますがよく炒らないと剥けません。剥いた豆はご覧のとおり擂鉢へ入れて、まず、すりこ木でよく砕いて、それから充分に擂り潰すのですがこれもなかなか骨が折れます。炒りようが悪いほどねばりついて擂れません。ひとつ擂ってごらんなさい」

「イヤハヤ僕は味噌さえ擂ることが下手ですからとてもだめです」

「男の人は誰でも台所のことを軽蔑して飯の炊きようも知らんとか、味噌を擂ることもできないとかおっしゃるけれども人間として自営の道を知らないのはあんまり自慢にならないでしょうよ。戦争に行って籠城したらどうなさいます。航海して無人島にでも吹き流されたらどうなさいます。高尚な学問や理屈は知っていても自分で自分を養う事が出来なかったら不自由ですね」

「そう言われては一言もない。しかし、それは追々覚えるとしてそれから南京豆をどうするのです」

「擂鉢でよく擂れたらお湯を適当に加えて塩と砂糖で味をつけますが、もう一層美味しくするには牛乳を半分ほど加えます。あるいはコンデンスミルクやクリームをお湯で溶いて加えるのもようございます。見てらっしゃい、下女が今上手にこしらえますから」と、一々その順序を示し、再び客を以前の客間にいざなって「サア大島さん、ようやくできました。貴君はきっと沢山召し上がるだろうと思っておおきな丼鉢へ入れてきましたからご遠慮なく何倍でもおかわりしてください」と下女に命じて南京豆の汁粉を前に出させた。客はいまだに胃吉と腸蔵に対して憚る(はばかる)ところがあって「それでは少々いただきましょう。餅はたくさんですから汁だけでも」と一口二口試してみたところ舌を打ち鳴らし「これは美味い、実に美味い、炒ってあるせいか割合に淡白ですな」

「さようです、何の料理にしてもしつこくありません。中のお餅も一つ召し上がってご覧なさい、特製ですよ」

「なるほど、この餅も軽くって何とも言われん味だ。これはなんという餅です」

「それは葛入り餅と申しまして、葛の粉少々と糯米(もちごめ)とを一緒に蒸して十分に搗き抜いたのです」

「道理で、絹漉し餅とでもいうべきくらいです。あんまり美味しいので残らず平らげました」

「おかわりをなさいまし」

「そんなにいただくと食べ過ぎになりましょうけれどもあんまり美味しいからモー一杯」と、ついに三杯までたいらげてしまった。胃吉と腸蔵はどんなに驚いたことだろう。

 

○南京豆の汁粉は濃いほど良い。奥州あたりの胡桃餅の様に南京豆餅と言ってもよい。餅のない時は白玉を用いるのもよい。

○和え物は本文の通りによく炒って擂ったものへ絞った豆腐を入れ、塩と砂糖を加えてよく擂り交ぜ、別に人参と蒟蒻あるいは蕪などを茹でこぼして醤油とみりんで味をつけ柔らかくなるまで煮て、冷めてから南京豆と和える。

○南京豆の豆腐は擂った南京豆一杯と上等葛一杯と水5,6杯の割合でよく交ぜ合わせて鍋に入れ、火にかけて十分に練り、四角な器に入れ冷やし、これを葛の餡かけにしてもよし、すみそにしてもよし。

○葛入り餅を作るときはくず粉を蒸さずに餅の熱いところへ少しづつ交ぜながらついてもよし、また糯米の粉にしたものへまぜてもよい。

○南京豆は相州相模国)産を良しとする。蛋白質2割4分、脂肪5割、含水炭素(炭水化物)1割2分あって、滋養分が多い。

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胃吉~腸蔵~、がんばれ~~!

ちょっとだけと言いつつ丼三杯も南京豆汁粉を平らげてしまった大原。この名前は弦斎が大原=大腹をかけてるに違いありませんね。それにしてもこの奥さんの勧めること。ちょっと大原がかわいそうになりました。
そして、奥さんがしっかりしていると女中もしっかりした働きを求められ大変そうですね。綺麗好きで料理好きの奥さんのお家の女中さんたちは弦斎にすら大変そうだと書かれていますが、当時はこういうしっかりしたお家で勤めた女中さんたちは良いところに縁付いてちゃんとしたお嫁さんになっていったのだと思います。奥さんたちも私的な場所である自分の家庭の中で、他人である女中さんを教育監督しながら家内の采配をし、家計を取り仕切り、時には自らが女中さんたちの手本になる様自己を制御しつつ暮らしていく、女主人として多分に修養的な生き方を求められていたようです。
明治中期のこの作品中には、下女という書き方がしてありますが、そこは必ずしも身分の上下という感覚だけではなく、下働き、仲働き、奥勤め、身の回りのお小間使いなど、職掌分担的な名称という意味合いもあるようです。

とは言え、女性の職業選択の幅が広がったこと、家電製品の発達、封建的主従関係的な人間関係が敬遠されたことなどから昭和30年あたりを境に女中という職業は一般家庭から姿を消しました。昭和40年代も末に、珍しく石屋の住込みの女中さんをしている美代ちゃんは、女中というという呼び方に対し「お手伝いさんって言ってください」と、言ってましたね。向田邦子脚本のテレビドラマ「寺内貫太郎一家」の一場面。「お、お手伝いさんだって。自分に『お』をつけて、『さん』までつけておえらいことだね、私らのころはただ女中って言ったもんだがね」と美代ちゃんに小言を言っているおきん婆さんも女中から主家の嫁に直ったひとでした。きっとしっかり者で息子の嫁にと見込まれたんですね。

というわけで、南京豆汁粉、作ってみました。
焙烙で炒ってくれる女中もいませんし、時間もないことなので、殻をむいたピーナツを150度のオーブンで10分ローストして臨みます。
本文では炒った豆を砕いて熱湯で延ばすという作り方でしたが、ちょっと丁寧に、薬膳のピーナツ汁粉を参考にしてみました。

炒ったピーナツを水と一緒にミキサーにかけて漉し、この漉しとった汁に水を加え、片栗粉を少々入れて混ぜて火にかけ、混ぜながらゆっくり加熱します。とろみが出てきたところで砂糖を加え、お好みで、本文にもあるように牛乳やクリームを足すとコクがでます。中に入れるお餅は生憎上新粉がなかったのですが、くず粉はあったので、くず餅にしてみました。

なんというか、南京豆とかピーナツとかの親しみやすく、陽気で、健康的なイメージを覆す、白く、上品で優しい一品。途中で火を入れるわけだし、生のままで作ってもよかったかもしれません。薬膳といわれるだけある。冬の朝このひと匙で体がよみがえりそうな滋味深いものが出来上がって少し驚きました。

それにしてもまるでこれを作れと言わんばかりに、偶然にも数日前に生ピーナツの情報をくださったFお姉さま。わざわざ買ってきてくださってありがとうございます。

このブログは読んで下さるあなたと、助けてくださる皆様の協力で成り立っております。私もしっかりものの女中さんが、ほしい~。

つづく

 

第3回 酔醒め

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「モシモシ大原さん、たいそうおうなされですね。どうなさいました、怖い夢をご覧になりましたか。モーお目覚めなさいまし」と年若い奥さんが年賀の客で、年のころ32,3歳くらいの男が酒に酔って寝転がっているのを呼び起こした。ウームと両手をのばしてようやく我に返った酔いざめの客は奥さんの顔を見て面目なさげに起き直り「どうもこれはとんだ御厄介をかけましたね。御酒(ごしゅ)を頂いてあんまり好い心持になってツイうとうとと寝てしまったと見えます。僕は御酒を飲むとどこでも構わず寝るのが癖でおおいに失礼いたしました。」と衣紋と繕い袴のしわを伸ばし手巾(はんけち)を袂より取り出して二、三度口を拭った。奥さんは下女に命じてお茶を一杯客に出させ「おやすみになるのは一向に構いませんが、たいそうおうなされでしたから、お苦しかろうと思ってお起こし申したのです。夢でもご覧になりましたか。」

「ハイ見ました。、妙な夢を見ました。腹の中で胃と腸が話をして、しきりに不平を溢しているところをみました。僕は学校にいた時分から校内随一の健啖家と言われて自分も大食を自慢にしていたくらいですから、僕の胃腸は随分骨が折れましょう。胃は極度に拡張し、腸は蠕動力(じゅどうりょく・収縮してぜん動する力)を失っているくらいだと医者が申します。学生時代に一年中脳病で苦しんで思うように勉強が出来なかったのも全く大食の結果で、消化器を害すると必ず脳へ来るそうです。僕ばかりではありません、今の学生がよく脳病だというのは大概胃病の結果でその胃病は野蛮な暴飲暴食から来るのです。僕はそのためにこちらの小山君と同時に大学へ入りながら三度も試験に落第して、同級生には残らず追い越されてしまい、去年の夏かろうじてようやく卒業できたくらいです。それも今考えてみると全く教師のお情けでしょう。試験の得点は落第点と殆ど間髪を容れず卒業者中最下位でした、アハハ。しかし、持った病で大食はやめられません。悪いと知りつつどうしても自ら制することが出来ません。今朝なんぞは雑煮餅の大きいのを18切れ食べました」

「オホホ、貴君(あなた)がものを召し上がるのはホントにお見事です。何をこしらえても貴君に食べていただくと張り合いがあります。そのつもりで今珍しい御馳走をこしらえておりますから、どうぞ沢山召し上がって下さい」

「イヤ、モー控えましょう。そんなにいただくと胃吉や腸蔵がどんなに怒るか知れません、だがしかしたいそう好い匂いがしますな、非常に香ばしくって、さも美味しそうな匂いが」と、しきりに鼻を蠢かす(うごめかす)。

奥さんは笑いながら「貴君が今まで召し上がった事のないという御馳走です、好い匂いでしょう、あれは南京豆です、ただ今南京豆のお汁粉というものを差し上げます」

「ヘイ南京豆のお汁粉とは珍しい、どうしてこしらえるのです」

「なかなか手数はかかりますけれども手数をかけただけの御馳走になります。失礼ながら台所へきてご覧なさい。貴君も今に奥さんをお持ちになるとこんなことを覚えておかれる方がお得です」

「そうですね、いかにも後学のためだ、一つ拝見致しましょう」

「拝見ばかりではいけません、少し手伝ってください」

「ハイハイお手伝い致しましょう」と、仲の良い友達の家と見えて遠慮もなく台所へ立って行った。

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まさかの夢落ち・・・。

胃吉と腸蔵の前座が終わりようやく登場人物、大原が出てきました。家でお餅を18枚も食べた上で友達の家に年始に来てお酒を過ごして寝てしまう。大学を三度も落第して、それも大食のせいと言い、友人の奥さんに台所を手伝えと言われていそいそと立ち上がる、のんびりしていてどこか憎めない人のようです。
料理を出す側としては、こういう食べ手がいることは本当にうれしいものです。作り手の苦労を理解し、しかもただ有り難がるのではなくその料理の価値をわかってくれ、しかもたくさん食べてくれるとは、この奥さんが夫の友人大原に優しいのも分かるような気がします。

私の夫の母はなかなか料理上手の人でしたが、その義母が言うにはお舅さん=私の夫の祖父が健啖家で、作るものを喜んで食べてくれたことが嬉しかったと言っていました。そして私もまた、義父母が喜んで食べてくれることはとても励みになったものです。

特に義父はとにかく珍しいものが好き。「よく知っている美味しいものと珍しいけどまずいものならどちらがよろしいです?」と聞いたら、迷わず「珍しいものをお願いします」と言われました。そして「どちらかというと洋食が好きです。魚はあまり好みません」で「南京とさつまいもは戦争中に一生分食べたのでもう結構」で私に「ヤマナカでは男がお茶を入れることになっとります」と言って紅茶を淹れてくれました。
その義父が嚥下障害になり、飲み込むことが出来なくなり、誤嚥性の肺炎で入院となり、状態が落ち着くにつれ、点滴よりおなかを動かす方が良いから、といろいろ協議した結果胃ろうという処置をとりました。認知症が進み、自分が食べていないことはあまり気になっていないようなのが救いですが、食べられない義父はやはり見ていてかわいそうです。

そして私も大切な食べ手を一人失い、さびしいです。

「チョイと腸蔵さん、この家の主は口から食べるのをやめちまったようですよ。最近は上からでなく横っちょの壁に窓を開けてそこから時折何か入ってくるようになりましたよ。こなれのいいものばかりで楽といえば楽ですがなんだか張合いもなくってねー」

「いや、それはこちとらも同じですよ。絞るだけ絞ったら全部滋養になっていって、好いと言えば好いのですがねー。今となっては上やら下やら文句言い言い働いていたのも懐かしいやね―」

なんて言っているかもしれませんね。

 

さて、大原の一言、「消化器を害すると必ず脳へ来る」は本当でしょうか?この事の真偽はわかりませんが逆もまた真なり。「消化器を動かすと脳によい」のは本当みたいです。胃ろうでも、胃や腸を動かしてして自力でしっかり栄養を取ることで、義父の意識ははっきりし、物事の判断も少しはできるようになりました。

腸は第二の脳とか。おなかを動かすことは大切ですね。
というわけで、今日は思い出のラムのソテー、義父の好物の一つです。ローズマリーの香りは脳のリフレッシュにも良いそうですよ。

 

つづく

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第2回 酒の洪水

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人は気楽なもの、腹の中でこんな恐慌を起こすとも知らず、へいぜい胃吉や腸蔵を酷使することに馴れてしまう。遠慮会釈もなく上の方よりドシドシと食べ物を腹の中に詰め込んでくる。胃吉と腸蔵が驚くまいことか。

「そら来たぞなんだか堅いものが。これは照りゴマメだ。石のようにコチコチしている。歯太郎さんが噛まないとみえてさかなのかたちがそっくりそのままだ。こんなものばかりよこされてはたまらんね。オットどっこい、また来た。今度は数の子だ。乾し固まって塩の辛い奴を碌に塩出しもしないでこしらえるから消化(こな)そうと思っても消化れない。腸蔵さん、ホントに泣きたくなるね」

「元日から災難だ。オイ胃吉さん、危ないぜ。上の方から黒い石が降ってきた」

「なるほど降ってきた。これは黒豆だよ。よく煮てないから石のとおりだ。よりにもよってナゼこんな悪いものばかりよこすのだろう。少しは手数のかからないものをくれればいいのに。オヤオヤまた来た。今度は柔らかい。なんだろう、卵焼きだ。しかしなんだか臭いね、プーンとイヤな匂いがしたぜ。腐っているのではないか。」

「腐りもするはずだ。正月のおせちにするって十日も前にこしらえてお重へ詰めておいたものだもの。せめて玉子でも新しければ少しはもつけれども、二月も前によそから貰った到来物の玉子だ。それも上海玉の下等なもので割ったときはほとんど卵黄(きみ)が壊れていた。腐ったものは堅いものよりなお悪い。きっと例の虫がいるよ、良く調べてご覧。」

「オー、いるともいるともウジャウジャいる。私はこの虫が大嫌いでね、虫を見るとぞっとして手もつけられない。中でもコレラの虫や赤痢の虫は一番イヤだ」

「この頃はペストの虫といってたいそう怖い虫があるそうだね。虫といえば去年の夏頃腸チフスの虫が水と一緒に流れ込んできたときには驚いたよ。あの虫は腸のチフスというくらいで私へばかり食って掛かってあんな酷い目に逢ったこどがない。私もお前さんも二十日ばかり泣きとおしたっけ。」

「あの時のことはまだ忘れない。もうもうこんな商売は辞めようと思った。虫のいる食べ物は私も手を付けるのがイヤだから、そっくりあげるよ」

「イヤイヤよこされてたまるものか。どうぞ虫を殺しておくれ」

「暇があれば殺していられるけど後からドンドンやって来るもの。ソラ来た、今度は牛蒡の煮たの。煮たというのは名ばかりで、生も同様だ。ソラ人参も来た。どっこい今度は焼豆腐か。この焼豆腐も少し怪しいよ。豆腐屋が売れ残りの豆腐を焼いたとみえてやっぱり虫がまじってる。オヤ蒲鉾がやってきた。蒲鉾というと魚の身でこしらえたようだがこの蒲鉾は魚三分に芋七分、これも去年到来の古いものだね。腸蔵さん、こんな様子ではとても今日楽をすることはできないぜ。中途半端に今頃ドシドシ食べ物が来るようではどんな目に逢うか知れない」

「食べ物だけで済めばいいけど今に私たちの大嫌いなお酒でも飛び込んで来たら百年目だ」

「お酒が来たらモー仕事なんぞするものか」と噂の言葉が終わらないのに腹中の天地がたちまち震動して上の方より酒の洪水が押し出してきた。

「そら逃げろ」「津波津波だ」と胃吉も腸蔵も一目散に逃げていく。

 

○ゴマメは蛋白質五割九分、脂肪二割り一分あって滋養多し。

○数の子は蛋白質二割、脂肪一分あり。

○黒豆は蛋白質四割、脂肪一割八分、含水炭素二割二分あり。植物中最も滋養分に富む物だが、極めて柔らかく煮なければ消化に悪い。

○豆腐は大豆から作られたもので滋養分多く、蛋白質七分六厘、脂肪七毛あり。

○焼豆腐、人参、牛蒡その他のお煮しめを煮るには魚類のスープを用いること。

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いやー、すごかったですねえ。

胃吉と腸蔵の受難はもちろんですが、正月三日目におせちを食べながらこれを読んだらどういう気持ちになるでせう?読者の気持ちを忖度しないなかなか勇気のいる描写だと思います。

前回19世紀は科学の時代と書きました。原因不明の、あるいは風やら動物やら遺伝やら、いろんなことが原因で起こると思われていた病気の原因がどうやら目に見えない小さな生物=細菌によるものであるとわかってきたのもこの時代です。

1882年ドイツのコッホが結核菌を発見し、翌83年にはコレラ菌も発見し1905年にノーベル賞を受賞します。日本人では、コッホの高弟北里柴三郎が1894ペスト菌を発見して世界を驚かせましたが、世界はまだまだ病気に弱く、日本では1895年軍隊内でコレラが大流行し死者4万人を出し、1897年は全国で赤痢が流行2万人以上が命を落としています。

氷で食物を長く保存する知恵は古くからありましたが、日本で人工の機械製氷の技術が発達し製造会社が増えてきたのは1883年以降で、上段に氷を入れ、下段に食物を入れる木製の冷蔵庫が普及していくのは大正時代、電気冷蔵庫の普及は昭和30年代まで待たなければなりません。弦斎が食道楽を著した1903年頃は氷を買い専用の箱などで食べ物を冷やすということが広まっていった時代のようで、先の大隈伯爵家のキッチンにもまだ冷蔵庫はありません。抗生剤も発明されておらず、食べ物でおなかを壊すことは命取りになることも多かったのです。主が頓着せずとも胃吉や腸蔵にはよく見える、悪い食品にはウジャウジャ虫がいるよ、というのは、ほんとに気持ちの悪い書き方ですが、衛生観念に乏しかった明治の人々を啓蒙しようという教育家弦斎の気持ちの表れなのでしょう。


それにしても、この胃吉と腸蔵の持ち主はいろいろなものを食べていますね。消化に悪いものやその食べ物自体が怪しいもの、中でも玉子焼きには驚きます。10日も前に作ってお重に詰め込むなんて。
以前はおせち料理を作る料理屋さんは、師走の29、30日から31日、料理が傷まないよう、暖房もせず窓を開けて吹きさらしの厨房で寒さに震えながら徹夜で作るということを聞いたことがありますが、今ではひと月前くらいから作りおいて冷凍ということが多いようです。それもこれも冷凍技術の進歩のおかげということでしょうが、大体卵の賞味期限はどのくらいでしょう?『賞味期限』として統一明示するようになる1997年以前、否、冷蔵庫が普及するようになるまで、卵は冷暗所で、常温一か月というのが大体のところのようです。これは採卵後ひと月、ということです。今の賞味期限は日本人の食習慣に合わせて、生食で食べれる期間を示しているものなので、賞味期限を過ぎても加熱したら食べられることが多いと思います。ある有名パティシエは賞味期限を一週間過ぎたくらいの玉子の卵白が一番メレンゲに適している、と言っていました。もちろんこれは傷んでいないのを確かめながら使っているのは当然です。何はともあれ自分の五感で食品の良しあしを判断する、というのはとても大切な人間の、本能、生存に直結した能力だと思うのですが、この賞味期限という概念が普及して以来、日本人がその能力を捨て去ったような気がしてなりません。食品廃棄は日本の大きな社会問題です。大量の食品ロスをなくすためにも、賢い消費者としての感覚を養うべきだと思うのと、クレーマーにならない、クレーマーを恐れないという売る方と買う方双方の覚悟も必要なのかもしれませんね。
ところで上海玉ってなんでしょう?実は玉子というものは世界中で取引される一大貿易商品でした。19世紀から20世紀初頭世界の卵輸出国は第一にロシア、中国、デンマークと続きます。鶏は古くからの家禽ですが玉子は一羽のめんどりから一日1個しか採れません。鶏肉も一羽からとれる量は牛一頭豚一頭に比べれば少量です。ブロイラーの養鶏技術や採卵の技術が確立する以前、お肉屋に行っても牛肉、豚肉にくらべ鶏肉は概して割高であり、卵はよく言われますが、病気の時に食べる滋養の塊、貴重品であったようです。そんな時代中国からの卵は比較的安価で庶民の食卓に上りやすかったようです。

というわけで、だし巻き卵を作ってみました。私は普段はお砂糖たっぷりの甘い卵焼きが好きですが、今日はかつおだしで塩味のだし巻き卵です。玉子と同量のだしを入れて…と思っていたらなんだか入れすぎて玉子の2倍くらいのだしが入ってしましました。焼くのは難しかったですが、その分ふわふわになりました。

食品成分表とか、突っ込みたいところはまだまだありますが、今日はこのくらいで。

胃吉と腸蔵が逃げてしまったらこの主はどうなるのでしょう?物語はこれからです。

つづく

 

 

 

第1回 腹中の新年

 

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今日から「食道楽・春の巻」本編に入ります。

『食道楽』は明治36年(1903)1月から12月まで、当時の家庭向け新聞の雄「報知新聞」に新聞小説として連載されたものです。ですから、一話ごとの分量も少なく、その少ない紙幅にこれでもかというくらいいろんなトピックがが盛り込んであります。そのため改行も少なく一文が長く読みにくいところがありますが、そこはこちらで少し補いつつ進めたいと思います。

さて、「食道楽」第1回は明治36年1月2日の掲載でした。

現実世界に合わせて小説の舞台もお正月ですが、それはおなかの中のお正月。新年のごちそう攻めにあい、消化吸収に休む暇もない胃の胃吉と腸の腸蔵が文句を言いあうところから始まります。

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第1回  腹中の新年

 

今日は正月の元日で、天地乾坤自然にのどかな空気に包まれている中、ここにも春風が吹いてきたようだ。腹の中で胃吉と腸蔵が新年を祝っていた。

「おい、胃吉さん、おめでとう。」

「やあ、これは腸蔵さん、去年はいろいろお世話様でしたね。また相変わりませずか、あはは。時に腸蔵さん、今日は正月の元日といって、一年に一度の日だからお互いに少し楽をしたいね。私たち位年中忙しくってみじめなものはないぜ。娑婆の人間は日曜日だの暑中休暇だのと壱年の中にはたくさん休みがある。いくら忙しい奉公人でも盆と正月に藪入(やぶいり)があるけれど私たちばかりは一年中休みなしだ。私は一日に三度ずつ働いていれば自分の役が済むのに、ここでは間食が好きで三度の他にヤレ菓子が飛び込む、団子が飛び込む、酒も折々流れ込むからホントたまったものじゃない。だから自然と仕事も粗末になって荒ごなしの物をお前さんの方へ送ってひどく叱られたりするけれど、これからはお互いに仲良くしようじゃありませんか。」

「それは私も大賛成さ。お前さんはこなすのが役目、私は絞るのが役目だから、お前さんのほうでよく食べモノをこなしてくれれば私だって絞る仕事が楽というものだけれども、毎日の様にこなれてないものをよこすものだから、時によってはお前さんのほうへ突き返したり、時によっては下の方へ押し流したりすることもあるのさ。荒ごなしどころか時には丸のままで送ってよこすこともあるからついケンカも始めるようなことになるのさ。今朝の雑煮餅だって随分荒ごなしだったぜ。」

「あれは堪忍してほしい。今日は元日だから楽をしようと思っているところへ、朝の雑煮餅が飛び込んだとも、飛び込んだとも、18枚も飛び込んできた。それもね、玄関番の歯太郎さんがよく噛み砕いてからよこしてくれたらいいけれど、今朝なんぞは歯太郎さんが遊んでいてまるで鵜呑みだからね。その代わりおかしいことがあったぜ。歯太郎さんのお内儀さん(おかみさん)のお金(きん)さんがもちに引っ付いて釣り上げられてもう少しで喉の穴に落ちるところさ。カッと言って吐き出されたから口の外へ飛び出してやっと助かったけれども一時は大騒ぎだった。そもそも、お金さんは前のほうにいるから何の役にも立たないのさ。奥の方に座っていなければ食べ物をかむことができなかろうにねー。」

「それは全く見栄だからだよ。見栄のためにお金さんを前のほうへ置くのさ。肝腎の奥の方はおゴムさんなんぞに任せきりだから歯太郎さんだってろくな仕事ができない。仕事を大切に思ったら、前の方はおゴムさんでも何でもいいけど、奥の方こそお金さんに手伝わせなきゃあしようがない。正月そうそうお金さんもとんだ目に逢いなすったね」

「まあ、何しろ、今日はお互い遊びたいものだ。私たちだってたまには休息もしなければ、根気が尽きて益々働けない。娑婆にある大きな蒸気機械も、折に触れて休息させて大掃除もしなければゴミがたまったり油が切れたりして、じきに機械が壊れてしまう。機械は壊れても取り換えることができるけれども、私たちばかりはかけがえがない。随分心細いものさ。」

と夢中になって話しているところへ、何やら赤い水が上より流れてきた。胃吉は驚いて「おやおや、何か来たぜ、妙なものが。うむ、お屠蘇だ。紅絹(もみ)の布きれに包んでみりんに浸してあるから紅絹の染色が一緒に流れてきた。腸蔵さん、すぐにそっちへ廻してあげるよ。」

「いや、まっぴらだ。」

***************************************お正月にお雑煮でいっぺんに18個もお餅を食べたんですね、この胃の持ち主は。

昔は年の数だけ餅を食べろとかなんとかおばあちゃんが言ってました。節分のお豆じゃないんだから、と思いますが、一年に一度おなか一杯もち米で搗いたおもちが食べられる、ということで、昔の人はここぞとばかりに食べてようです。そして、お正月だというのにお餅も買えなかった貧しいおじいさんとおばあさんの家にはお地蔵さんが持ってきてくれたりしたみたいです。昔は。

 

さて、弦斎は一話一話に詳細な注釈をつけています。第1話については・・・

 

○歯で咀嚼→唾液ででんぷんを糖分に変え→胃で胃液によって化学変化→小腸に入って腸液、膵液、胆汁の消化作用を受け、消化したものがもうう脈を通じて肝臓に入り、ここで消毒作用を受け、栄養として体中に吸収される。
○何人も折々は断食して胃腸を休ませるべし。食事時間が来ても、おなかが減ってないのに強いて食べるのは有害である。

○屠蘇を紅き布に包むのは有害である。白布かガーゼにするべし。

○雑煮を作るときは汁の中へ大根を入れるべし。大根は化学作用で餅を消化させる。

○餅を食べるときはいつでも食後に大根か大根おろしを食べるべし。

 

19世紀は科学の世紀。ヨーロッパでは神学を離れ、解剖学や生理学が大変に進みました。弦斎も人体の器官を擬人化することで、読者の食に対する態度を啓蒙しようとした姿が見て取れます。そこのおばあちゃん、いくらハレの日でも、一度にドカ食いはいけません。孫に勧めてはいけませんよ、と。むしろ胃腸は適度に休ませ、おなかがすかなければ食べなくてもいい、というのはまさに現代のファスティングに近い考え方。

断食療法というのは、抗生物質や、投薬で何とかしようという現代医学以前には、よくあった考え方のようです。下痢や胃痛があるときは、重湯とか、せいぜいおかゆで、我慢できるなら2,3日白湯で過ごす。これは西洋も同じらしく、19世紀を生きた、パールバックの「母の肖像」の中で、おなかを壊した幼い兄弟が、断食療法中なので、おやつのビスケットが一人だけもらえなかったという記述があります。子供に断食!これが科学的な態度ということなのか!賢いお母さんのすることなのか!食い意地のはった小学生だった私は、パールバックのお母さんの厳しさにぞぞっとして、兄弟が食べているのに自分だけおやつをもらえないなんて!ととてもかわいそうに思った記憶があります。そして正露丸があってよかった、(おなか痛かったら正露丸飲んどき、とよく言われました)、とか思ったものです。

また、お餅を食べるときは大根と一緒に食べるとこなれがいいということは古くから知られていたことで、これもまた、おばあちゃんが「ジアスターゼが出るけえね」と言ってました。ものを食べるとき分泌される唾液によって澱粉が分解されますがその時の消化酵素がジアスターゼで、大根やカブなどに豊富に入っています。が、唾液の中の消化酵素ってアミラーゼというのではなかったか?理科で習った時は、確か。今、調べてずーっと疑問だったことが解決しました。ジアスターゼってアミラーゼのことでした。ちょっと調べれば済むことでした。はい。皆さんとっくにご存じだったかも。

ところで、お屠蘇ですが、この時代屠蘇散を紅絹で包んで、赤いお屠蘇を飲んでいたとは知りませんでした。紅絹の紅色は邪気を払うというので使われたのでしょうか?しかし天然色素の紅絹ならまだしもこの時代は化学染料が出て一気に広がった時代です、確かに飲んだら体に悪そう。今は白い不織布などで振り出しになっているので赤いお酒を飲む心配はなさそうです。赤いワインでお屠蘇、なんか、良いかもしれませんね。

 

というわけで、こういう実用性、啓蒙性と文学性は並び立つのか?
小説として明治文壇には全く評価されませんでしたが、「食道楽」は非常に人気を博し、さらに多くの女性たちの嫁入り道具として一つの家政全書のような位置づけで、第2次大戦後の、少なくとも1960年代くらいまでは家庭で有用の書として50年以上の命脈を保ってきたようです。そして、また今、食育ブームに乗って復刊されるなど、100年もの長い間生き続ける書物となりました。

さて、次回、胃吉と腸蔵はおやすみをもらえるのか?

つづく

 

【お詫びと訂正】

昨日この記事から前日の記事に戻れないというご指摘がありました。ブログ初心者の私の不手際で、もう一つ別のページを作って投稿していたようです。
こちら一つにまとめましたので、以後、このページで続けていきたいと思います。
昨日いいね!をしてくださった皆様、申し訳ありません。

今後ともこちらでよろしくお願いいたします。

平成・食道楽 ~今日も美味しうございました~ はじめに

 

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明治36年の大ベストセラー、村井弦斎著「食道楽」。


全編に630種もの料理レシピを盛り込んだこの作品は単に美食、食通小説というものではないようです。食を通して生活全般の改善を目指し、文明社会に生きる近代的人間としていかに生きるべきか、という考え方をのべています。
食道楽が書かれた時代と現代では、当時にはわからなかったことが分かったり、いろいろな変化があり、ずいぶんと事情も違っていますが、子供の教育に関して「食育」という言葉を使って食の大切さ、家庭の在り方を説いていたり、世界中が肉食になったら牧草地が足りなくなるのでは?と今日の食糧事情を予測していたり、今読んでも新鮮で示唆に富んだ内容で、出てくる料理も興味深い。


このブログは、この古くて新しい、今日的な問題も提起している作品を現代語、現代的表現に訳しつつ、現代の、食と食を取り巻く社会事情と比較しながら、読んでいく試みです。

では、始めましょう。

今日はお話に入る前、弦斎による序文と口絵につけられた説明です。

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食道楽 春の巻 口絵f:id:YOKOTANU:20151022015546j:plain

 

諸言

小説は食品のようなものである。味がよくても滋養のないものもあり、味は頼りなくてもでも滋養豊かな物もあり、私は常に後者を取って少しでも世の中にお役にたとうと思っている。しかしながら小説の中に料理法を掲載するのは懐石料理に牛肉や豚肉を盛るごとく、似合わないものではある。並々ならぬ料理人の努力の末に口にできたものの味を感じないということがあるものであろうか。世間の食道楽の人たちには酢豆腐を嗜み塩辛を嘗める物好きもいるようであるから私の小説の新しい味を喜ぶ人もいることであろう(レシピを小説中に掲載するのは懐石料理に肉を出すようなもので、小説としていかがなものかとは思うが、尋常ならざる努力の末に口にする料理と同じように、私が苦心して書くものも味わっていただきたい)。食物の栄養分はこれを消化できて吸収できなければ体に有用にはならない。さて、私の小説が読者の消化吸収していただけるかどうかは私の知るところとは言えないが。

明治36年(1903)5月

                          小田原にて村井弦斎

口絵 大隈伯爵家の台所

 巻頭の口絵に掲げたものは現在の上流社会における台所の模範といわれる牛込早稲田大隈伯爵家の台所で、山本松谷氏が腕を振るって写生した、本当の景色である。台所は昨年新築した時に作られたもので、この屋の主人の伯爵が和洋の料理に適用させようともっとも苦心された新考案の設備で、その広さ25坪、半分は板敷半分はセメントの土間で天井におよそ8畳分の硝子の明り取りがある。きわめて清潔なこと、調理器具の配置が整然としていること、立って働くのに便利なこと、鼠が入ってこないことと全体が衛生的なことはこの台所の特徴である。口絵を見る人は土間の中央に大きなストーブが据えられているのが見えるだろう。これは英国より取り寄せられた瓦斯ストーブで、高さ1.2m長さ1.5m幅60㎝、価格は150円であると言う。ストーブの傍らに大小の大釜が二つある。釜のこちら側に料理人が土間に立って壺を棚に載せており、料理人の前方には板で囲ってある中に瓦斯竈(ガスかまど)3基を置いてる。中央の置き棚に野菜類がうず高くかごに盛られているのはこの屋敷の名物といわれる温室で作られた野菜である。3月に瓜があり、4月に茄子があり、根菜葉物果実茎もの、どれ一つとして珍しくないものはない下働きの女中、給仕係の少女、それぞれその仕事についてことに当たっている。人も美しく、あたりも清潔である。この台所に入るものはまず、その目に明るく快い感覚を覚えるであろう。

 この台所では毎日平均50人前以上の食事と調理している。百人二百人の賓客があっても、千人二千人の立食を作るのも、見なここで事足りるのである。伯爵家ではたいてい一日おきくらいに西洋料理を調理する。和洋の料理、この設備によれば簡単に出来上がり、何の不便不足を感じることもない。この台所がここまで都合よく用途に適したのはストーブにもかまどにも瓦斯を用いたためである。瓦斯であるから薪や炭の置き場もいらず、煙突もいらず、鍋釜の底が煤に汚れる心配もなく、急を要するときもマッチ一本で思うように火力を得ることができる。物を炙ったり煮たりするにも火力が安定しているので、ちょっとその使用法になれれば失敗する恐れはない。費用は薪炭の時代には一日1円51銭必要であったが、今はガス代95銭を要するのみだ。すなわち一日56銭の得となる。とは言え、ガスの使用は費用の減少よりも、便利さと清潔と手数を省く点において大きな利益があると言える。

 文明の生活をしようという者には文明の台所が必要である。和洋の料理をしようというものはよろしくこの新しい考えを学ぶべきである。

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あー、長かった。

この当時、女性たちは着物を着て、座って台所仕事をしていました。床に座って脚付きのまな板を取出して大根なんか切っていたのですね。庶民はまだまだ井戸端で野菜とか洗って、長屋の外に七輪出して煮炊きして、いやいや普段のご飯は一日一回炊いて後は冷やごはんと漬物、みたいな食事が一般的だった時代。都市部の中産階級でようやくガスを使うようになった頃です。火を使いながら電気ポットでお湯を沸かしたり、電子レンジでチンしたりで時短するなど考えもつかない、何をするにも人手がいるし、家の中に水道を引いているかどうかもおぼつかないからいちいち動線が長くて時間がかかるし。口絵のような台所は当時の富裕層の中でも特に先進的な思想に基づいているものでしょう。夢の御殿何しろ25坪のキッチンですからその中に狭小住宅が2つも3つも建てられそうです。現代でも理想のキッチン。だって、家庭で「和洋」の料理をしているのは、まさに今の私たちですから。

弦斎は徒に美食や珍味のためにこの本を書いたのではありません。和食の足りないところを洋食で補い世界の料理の良いところを食に取り入れていこうという考えだったようです。ですから、この本の中には今の私たちから見ても役に立つことがいっぱいなのです。

というところで、第一回目の肝は「文明の生活をなさんものは文明の台所を要す」でしょう。我が家のキッチンは…文明が崩壊した後の台所のようです。25坪は望むべきもないので、せめて明るく快適なキッチンを目指そうと思いました。

つづく