第8回 料理自慢

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新聞小説を追いかけて、毎日とは言わなくても隔日位で更新しようと思っていたのに、あれこれ忙しくしているうちにひと月たってしまいました。重い腰を上げようやく着手し、ほぼ書き上げた第8回。完成寸前に消えてしまいました。なぜ?と叫んでも戻ってこない。此の世に起こることはすべて意味があるということも聞きますが、この現象にも意味があるのでしょうか?気を取り直して、最初から書き直しです。徹夜になりそう。

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牛歩豚行の大原満は心に未来の創造を描き嬉しそうな顔をして中川家の格子戸をあけた。まだ案内も請わぬ先から主人の中川がふすまを開いて「大原君、待っていたぜ。今日は君がきっと来るだろうと思って待っていたところだ。もし来なかったら呼びに行こうと思ったくらいだ。マア、上がり給え」と、その元気の良い様子。大原は心に期すところがあったので一入(ひとしお)嬉しく、ゆっくりと上に上がって座敷に通り「中川君、まずおめでとう。時に今日はどういうわけでそんなに僕を待っていたのだ」ときいた。

「そのわけはね、このたび僕の妹が国から出てきたんだ。これが妹だよ」と話半ばにまず妹を紹介した。紹介されぬ先よりその人の顔を穴の開くほど眺めていた大原は書生風な態度を改め、俄かに居住まいを正し慇懃丁重に両手をついて初対面の口上を述べ「ありがたい訳だね。君の御令妹が御上京だから僕を待っていたとは実にありがたい。即ち天意ここにありかな」と言った。

「ナニ」

「イイエさ、僕も早く来ましょうと思ったけれども小山君の処へ寄って遅くなったんだ」

「そうだろうと思ったよ。僕の妹は料理自慢だ。長崎あたりの習慣で、女の子には料理を充分に仕込むのだが妹は国の料理を習ったほかに神戸や大阪で和洋の料理も少しずつ研究したんだ。今日は幸い長崎の豚料理をこしらえたから誰かにご馳走したい、せっかく御馳走するなら張り合いのある人に差し上げたいというのだが、物をご馳走して張り合いのあるのは君の他にないからね。そこで、君を待っていたのだよ」

「オヤオヤ、少し当てが違った。なんだ、少し都合が悪いよ。僕は小山君の処で南京豆のお汁粉というものを腹いっぱい食べてきた」

「あれをやったかい。僕も毎度御馳走になるけど少し食べると非常に美味いが何しろ脂肪だから食べすぎると胃にもたれるね。あの奥さんが君の食べるのを面白がって無闇に勧めたろう」

「勧めたことも勧めたが僕も美味いからずいぶん食べたよ。大きな丼鉢で三杯平らげた。後で気分が重たくなって立つこともできない。ここへ来るのも漸く歩いたくらいだ。」

「ヤレヤレそれは生憎だったね。せっかく君にご馳走しようと思って楽しみにしていたのに、妹もさぞがっかりするだろうよ」

「いや、そう思うだろうが、ほかの人の御馳走ではもう一口も食べられないが、妹さんのお手料理と聞いては腹が裂けてもこのままひきさがれんよ」

「では食べるかい、相変わらずえらい勢いだ。僕もまだ飯を食ってないから一緒に食べよう。お登和やさっそくここへお膳をだしたらいい」

「はい」と言って妹は台所に行って下女とともに大きな食卓を運んできた。食卓の上には見慣れない料理が皿にうず高く並んでいた。大原は先ず鼻を蠢かし(うごめかし)「どうもよい匂いだ、何とも言えん美味そうな匂いだ。豚は不味いものと思っていたが料理次第でそんなに美味くなるものかね」と聞いた。

「美味くなるとも、牛肉の上等なところよりもなお美味いよ」

「まさか」

「いいや、事実だよ」と熱く語ろうとするとき、お登和が小声で「兄さん、お酒をつけますか」と聞いた。

「そうだな、少しつけてくれ」

御馳走には必ず酒がつきものだ。悪い習慣である。

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料理上手というわけではないが、うちの母はお客があると食べろ食べろ、飲め飲めと勧めるのを一番のもてなしと思っている節がある。これを広島弁で言うと「食べんちゃい、食べんちゃい」「飲みんちゃい、飲みんちゃい」となるわけだけど、もう十分、要らない、と断っても「あーそうね、おなか一杯ねー」と片付ける端から、これはどうねとしつこく何か持ってくる。父も「もういらんって言ってるじゃあないか」と母を諌めながらも自分は自分でそれよりこれはどうか?とやはり勧めるのだ。

私が結婚したころ、父が夫を焼肉に連れて行き、まあ遠慮するなとあれこれ勧め、妻の父の勧めを断れないままに無理して食べ続け、帰りの車でついにおなかが爆発したことがある。ハンドルを握りしめ「大丈夫?どこかトイレに寄ろうか?」と聞く私に「い、いいから、早く、車を出して」と夫。助手席で背筋を不自然に延ばして座っている夫と「だいじょうぶ?」「いいから、は、早く!」という応酬を繰り返しつつ夫の額には油汗がにじみ、40分間車中地獄絵図であった。

両親は昭和ひとけた生まれの戦中派だ。一体この世代の食に対する執着は、戦中戦後の食糧難を体験したことによる飢餓感があるからだとは思う。しかし、さすがに戦後70年、飽食日本の生活も長くなり、これが嫌ならあれを、「パンがなければブリオッシュを」と不遜に選べる生活も長くなったのだから飢餓感も癒えたのではと思っていたのだが、先日久しぶりに母と二人でデパ地下で買い物をし、お茶でも飲もうと売り場が見渡せるカウンターで一休みした時、母が「それにしてもこんなにたくさんの物が売れるのかねー」と言った。そして、「売れんかったらどうなるの?」と聞くので、まあ、捨てるしかないんでしょうね、と答えたら曖昧な表情で「ふうん」と小さい声で返事をした。母の目は売り場の賑わいを通り越して何処か遠くを見ているようだった。

 

何かが間違っていると思っているのだと思う。私ですら、広島から上京した時、池袋西武の地下のケーキ売り場を見て驚愕したのだ。こんなにたくさんのケーキが一日で売れるのか!1982年、もう34年も前で狂乱のバブル時代前夜のことだが、その頃にして、トウキョウの豊かさは目を見張る様であった。そして、その大量のケーキを、売れ残ったら捨てると聞いて2度驚愕した。これほどの豊かさが、何かを犠牲にせずに成り立つとは思えなかった。どこかに、しわ寄せが行っているに違いないと漠然と思ったのを覚えている。


さてさて、豚は不味いものだと思っていた、と大原が言ったこの日を1903年とすると、これから30年の間に飢饉といわれる不作が何度かあり、今のところ日本史上最後の飢饉といわれる東北大凶作がおこったのが、1933年。この飢饉も遠因の一つとなって日本は豊かな土地と人口政策のために中国に進出し、日中戦争の時代となって米の配給が始まるのがその8年後、その前年より砂糖も切符制になり、1944年には配給も止まり、日本人が砂糖を自由に買える様になるのは1952年。戦後の食糧増産高度経済成長を経て、はじめてお米が余るようになるのが1971年である。ここまで68年。食生活はさらに豊かになり、ファーストフード、外食の一般化、様々な流行り廃りを経て、食品偽装や食の安全を脅かす事故もありの、で、今や6人に一人の子供が貧困で苦しみ、2015年、夏休みになったら給食がないために痩せる子供が散見されるようになっているという。ママ、大変だよ、この子たちにこそ社会が「食べんちゃい、飲みんちゃい」の猛攻をすべきじゃないの。

 

食道楽を読むと百年前の日本の食生活が分かる。そしてこの百年の間に、日本の食糧事情は上がって、下がって、どん底からてっぺんまで行ったけど、再び下がり始めたのかな?という気がしてくるのだ。国益という言葉が耳に着く昨今だが、子供と国民の健康を守らずして何の国益か、と思う今日この頃なのである。