第10回 豚の刺身

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***************************************客の大原は腹中に新たに食べ物を入れる余地はなかったが心に期するところがあったので無理に端を執り「なるほど、この汁は美味い、いろいろな野菜も交じっているけどこの豚は口の中で溶けるようだね」

「それは琉球の塩豚だもの。琉球の塩豚は有名なもので牛肉なんぞより数倍もする御馳走だぜ。豚だー、くらいに軽蔑されは困る」

「イヤ、どうして軽蔑ができるものか、琉球も豚は上等かね」

「種が支那から来ているし支聞く方も進んでいるから琉球豚は上等だよ」

「どうして支那豚はそんなに良いのだろう。やっぱり種類を改良したのかね」

「もちろん古来から食用にしていてよい種類を繁殖させた結果もあろうけど、一つには地勢にあるそうだ。第一豚の元祖のイノシシの肉が欧羅巴辺りのは非常に不味くって支那のは非常に美味いそうだ。欧羅巴は土地が平たんでないからいのししが常に筋肉を使うからその肉が硬い。支那は地勢上豚までノソリノソリと育つから肉が美味い。豚は猪を家畜にしたものだ。欧羅巴の豚も最初は猪の通りに肉が硬かったのを支那豚を輸入して今のように改良を加えたものだよ」

「なるほどね、一口に豚というが豚にも色々区別がある。この刺身のようになっているのも大層美味いがこれはどうしたのだ」

「それは豚の刺身というのだが、君のような下宿生活でも一度拵えておくと五日も六日も持つから試してみ給え。訳はないよ。まず、豚の三枚肉の上等を買ってきて、そのまま大きな鍋へ入れてよく湯煮る(ゆでる)。その肉の大きさによって一時間から二時間も湯煮ると杉箸がスーッと楽に透る、それがちょうどよい頃あいだ。その時別に大きな丼鉢に上等の醤油を注いでおいて今の湯煮た肉を直ぐに漬けておく。それが一日もすぎると醤油が肉に浸みて美い(うまい)味になる。イザ食べようという時小口から極薄く切って溶き芥子を添えるのだ。一つ試してみ給え。しかし僕のうちはまた少し贅沢にそれをまた一時間ほどテンピに入れて蒸し焼きにしたのさ」

「テンピとは何だ」

「俗にいう軽便暖炉だよ。しかし君らが使うにはカステラ鍋で沢山だよ。小さいから火が少しで済む。その鍋の中へすぽりと入るくらいなブリキの皿のような斧を作ってそれを鍋に知れて上下へ火を置けば牛肉のロース(=ロースト)もできるし、大概な西洋菓子もできる」

「さっそくそのお刺身を遣(や)ってみよう。こっちの皿にある細かいものは大層サッパリとしているが何だね」

「それは豚のソボロといって豚の嫌いな人にでも食べられる。本式にするとソボロ俎板(まないた)といって立て目の俎板で肉を細かく切るのだが、ここにその俎板はない。豚の肉を細かく糸切りにしてグラグラ沸騰している塩湯へ少しずつ落として、ザッと湯だったら網杓子で笊へ掬い上げてよく水けを切って、今度は他の鍋で油の中へ入れて炒り付ける。それから水一升に酒一合の割合で二時間ばかり煮て、牛蒡と糸蒟蒻ときくらげがあればなおいい。あるいはほかの野菜でも時の物でも構わん。野菜をやっぱり細長く切ってそれを加えて砂糖と醤油で味をつけるのさ。葱を細かに切って薬味にして食べると塩ゆでしてあるから誰も豚とは思わんよ。女にご馳走するならこれが一番だね」「僕も豚ではないと思った。実に美味くって頬が落ちる。これは全く御令妹のお手料理だからこんなにおいしいのだね」と大原は柄にもなくお世辞を言った。娘も少し鼻が高いようで「どうぞ、その角煮を一つ召し上がって下さい」と自分の最も自慢の料理を勧めた。

 

琉球の塩豚にも色々の種類がある。その中で縄巻と言い、肉の周囲へ塩をつけて荒縄でグルグル巻いたものが上等である。

琉球の塩豚を料理するにはひと晩くらい水につけて塩気を出し、いったん湯煮て薩摩汁のように種々の野菜とともに煮るのが良い。また刺身にもなる。種々の豚料理に使うこと。

○ソボロに用いる豚の肉は最初塩で揉みそれを沸騰したお湯に入れてもよい。

○ソボロは汁が沢山あるくらい煮つめてよし。野菜もなるべく小さく切るのが良い。

○テンピは西洋食品屋にある。壱円五〇銭なり。

○カステラ鍋は東京市浅草区蔵前片町瀬村正兵衛氏方にある。壱円五〇銭なり。

○豚は生肉で蛋白質一割五分、脂肪三割七分ある。ハムにしたものは蛋白質二割四分脂肪三割六分となり、滋養分は牛肉に優る。故に長く似てよく調理すれば滋養分は牛肉に劣らず。

○豚の糸切りの塩ゆでにしたものを煮て、炒り豆腐に混ぜ、再び炒ってもよい。

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漸く第10回目まで来ました。そして今回は料理のレシピらしきものも出てきましたね。明治の啓蒙家弦斎がどのような料理を紹介するのか興味津々です。

豚のソボロってどんな料理なんだろう?書いてある通りに再現してみようと思いましたが、とりあえずはタイトルにもある「豚の刺身」を。

白ネギの青い部分と生姜一かけを入れ、豚バラ肉を二時間ほどゆっくり茹で、柔らかく湯だったところで醤油に漬けて一晩おきました。お醤油以外にあれこれ入れてみたい誘惑に駆られましたが、そこはレシピ通りにシンプルに醤油だけで。

これは、とても懐かしい味がしました。白い脂身も、口の中でとろっと溶けるものの脂っこくありません。第9回で説明されていた通り、煮れば煮るほど軽くなるというのもうなづけます。脂身を食べるのは、油分のほとんどない食事をしていた当時の人にはとても特別感があったことと思います。明治32年生まれの祖母は健啖家で、97才で亡くなるのですが、かなり晩年でもステーキなどはここがおいしい、と脂の部分をおいしそうに食べていました。しっかり焼いたり、湯がいたりして臭みさえなければ牛や豚の脂身はコクがあり美味しく、滋養に富み、元気が出る食材であったことでしょう。児童文学者石井桃子の思い出に、明治の末、桃子の祖母が、元気が出ると言って薬のように豚の脂身を買いに行くという記述があります。

豚肉の茹で汁は冷たいところにおいておくと表面を白い脂がびっしりと覆いますので、そのまま脂をそっと掬い取ると澄んだ豚のスープが取れます。中華炒め、中華スープ、ラーメンのスープなどに使えば美味しくいただけます。

そして、豚の角煮。これも書いてはありませんが、砂糖醤油などの汁で煮る前に、しばらく下茹でして使いました。コックリと煮上げてもしっかり下茹でして脂を落としてあるので、しつこくなく、お箸で切れる柔らかさ。こちらも一度冷まして味をしみこませ、表面を覆う白い脂を取り除いてから温め直すとよいと思います。

また、ここで採れる白い脂はラードとして炒め物などに使われるとよいでしょう。

また、新たに出てきたテンピという調理器具。うちでは大正生まれの伯母も昭和一けた生まれの母もそう呼んでいましたからオーブンのことだとすぐわかりましたが、そういえばテンピという言葉も絶えて久しく聞くことがありません。オーブンのことをテンピと呼ぶ人はもうあまりいないのかもしれません。テンピは天火。石釜や、薪をくべる据え置き式の大きなストーブ=オーブンではなく、金属で作った箱を火の上に置き、全体を熱して熱い空気で中のものを調理する方法なので、箱の上側=天にも火を置くというところからこう呼ばれるようになったのかな?と勝手に推察しています。

中川が大原に勧めたカステラ鍋というものは写真にある江戸時代のお菓子の本にも載っていました。右ページ女性の足元の平たい火鉢の上に置かれている平たい四角の鍋がカステラ鍋のようです。上に炭が置かれて盛んに燃えています。

と、ここで、思い出したのが、ダッチオーブン。今日、友達が家の外で炭をおこしてダッチオーブンを使いアクアパッツァを作ってくれたのですが、カステラ鍋はまさにダッチオーブンと原理は同じですね美味しいアクアパッツァをいただきつつカステラ鍋を思う午後、美味しうございました。