第9回 豚料理

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新しい年ももう半月以上過ぎてしまいましたが、新年の場面からから始まる『食道楽』。ちょうど時期もあっているので、頑張って追いかけていきたいと思います。

本年もよろしくお願いいたします。

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主人の中川は熱心に豚の弁護を始め「大原君、僕は日本人の肉食を盛んにするため豚の利用法を天下に広めたいと思う。豚の肉は牛肉よりも値が安くって上手く調理すると牛肉より美味くなる。豚の肉は全く調理法次第だ。価値だって調理法次第で牛肉よりはるかに高くなる。生の肉を買ってみたまえ、東京辺りでは極く上等で二十二、三銭くらいだろう。腿の肉はずっと安い、買う場所によると十銭以下だ。その腿がハムになると和製で一斤三十銭から三十五銭さ。亜米利加ハムは一斤五十銭くらいだが仏蘭西性の上等ハムになると一斤一円二十銭する。一斤一円二十銭するものは牛肉にはない。西洋料理でも上等ハムの料理は牛肉料理より貴いとしてある。同じ豚でもそんなに違うじゃあないか、君が前に食べたのはどんなふうに料理したものだったんだい」

「牛肉の煮込みのように鍋の中へ豚の生肉を打ち込んで(ぶちこんで)煮たのさ」

「あはは、それこそ言語道断乱暴狼藉というものだ。長崎あたりでは昔から豚の生肉には毒があるといって決して直ぐ煮たもの食べない。西洋料理ではたいがい一度湯煮て(ゆでて)から使う。豚の生肉には例の寄生虫が沢山いる。それに生肉は脂肪が強いからたくさん食べると身体へ腫物(はれもの)ができる。おまけに消化も悪い。その代わりハムにでもすると消化が良くって腸チフスの後の最初の肉食にはハムを与えるというくらいだ。豚肉の生肉を直ぐに煮て食べるほど体に毒なことはない。第一味が悪い。決して上手くない。豚の肉や猪の肉は何の料理にするにも先ず大きな切り身を二時間くらい湯煮て杉箸がその肉へ楽に通る時を適度として一旦引き上げてそれから煮るなり焼くなりしなければならん。あるいはそぼろ料理のような小さく切ったものは塩湯で湯煮て油で炒りつけてそれから二時間も煮抜くのだ。生肉を直ぐに煮るようではとても豚の味を知ることはできんね」

「そうかね、そんなに湯煮たり煮たりしたら味が抜けてしまいはしないか。白いところなんぞは溶けてなくなるだろう」

「白い脂肪が溶けて消えるようなのは食用に不適当な下等な豚だよ。上等の肉の脂肪は煮るほど軽くなって溶けない。豚の肉の上等なのは三枚肉とも七枚肉とも言って、赤と白の段々になったところだ。知らない人は赤いところばかりくれろ何ぞと腿の赤身の一番悪いところを買って、良いところを捨ててしまう。赤いところでも上等のロースならほかに使い道があるけれど、白いところは煮れば煮るほど美味くなるのだよ。もし豚の肉を湯煮てみて、赤いところは硬くなり、白いところは溶けてドロドロになる様だったら非常に粗悪な食料を与えた豚で食用にはならないんだ。東京では折々そんなのを売ってるようだからよほど吟味して買わなければならん。上等の食物で飼った豚はよく煮るほど赤い肉が柔らかくなって白い肉も決して解けない。全体東京辺りの豚は乱暴だよ、二十貫もあるような親豚を屠殺して食用に売るから豚が硬くって味も悪い。先日小山君にご馳走した時はそれでしくじった。長崎あたりで食用にするのは子豚ばかりだ。親は種豚にするけど食用にはしないんだ。子豚の肉は柔らかくて好いけどもう一層美味いのは去勢した豚だよ。近頃は西洋からヨークシェアだのバークシェアだのいろいろな豚の種類が来るけれども、あれはみんな支那豚を種にして欧羅巴在来の種類を改良したものだよ。どうしても豚の元祖は支那だから豚の種類も食用に適しているし料理の仕方も豚は支那風のが一番うまいね」と豚のために気炎を吐く。そばより妹が「もし、兄さん、お汁が冷めるといけませんから早く召し上がりませ」と言った。

 

○豚の生肉には肉類の寄生物中最も恐ろしき旋毛虫及び嚢虫(のうちゅう)あり。人がもし半熟の豚肉を食すれば旋毛虫が体内で発育し大きな害を招く。また、嚢虫は人体に入って條虫(さなだむし)となる。

○豚の刺身を上等に作るには、最初肉片の両側に塩を塗り、鉄串で肉に孔(あな)を開け、塩が中にしみ込むようにし、本文のようにゆでたそのまま煮汁の中に一昼夜漬け置き、翌日取り出して煮醤油につける。こうすれば一層味がよくなる。

○本文中各項に出てくる献立は新しい料理法を示すのが主な目的で無理な配合が多い。読者はそのことを心して読んでいただきたい。

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「この本に出ている献立は新しい料理の『方法』を示すのが狙いだからレシピには無理のあるものが多い。そこのところ夜・露・死・苦」こんな注釈をつけてまでいろいろな料理を紹介しているのが面白いですね。

 

時は明治。300年の眠りから覚めた日本に怒涛のように新技術、新風俗、目新しいものが流れ込み、庶民の生活も短期間に目覚ましく様変わりしていった時代です。長らく肉食を禁じていた国民が豚や牛を口にすることは精神的にも大変な転換だったと思います。米と野菜、せいぜい魚の食事、その中で魚の格付け一番はやはりタイというところでしょうが、江戸料理はあっさりすっきりした味が身上、今や絶滅寸前、食べつくされそうな勢いのマグロでさえも「脂っこくていけねえや、汁に脂が浮くなんざぞっとしないね」とばかりに下魚(げぎょ)に分類されていました。そこにまだなじみのあるカモや小鳥などの個体として小さ目の生き物ならまだしも牛馬、豚などを食らうとなればどんなにか恐ろしく、しかし誰かが食べて美味と聞けばどんなにか好奇心が刺激されたことでしょう。しかしながら豚を食べるのはなかなか一般的にならなかったようです。

 

 豚肉の使用が広く一般化するのは、本文にあるように、中華料理の普及に負うところが大なのですが、(江戸初期に明の僧隠元によって京都にもたらされた普茶料理は別として)日本での中華料理は江戸初期に長崎に伝わったものが京、大阪、それから江戸へと伝わります。しかしこのときの中華料理は長崎では卓袱料理として開花しますが、ほかの土地では中国人の食べ物という位置づけで、なかなか日本人の一般家庭の食事にはならなかったようです。神戸、横浜などの南京街の主に中国人労働者の食事、という認識だったようです。ちなみに長崎に伝わったのは福建系の料理、その他の中華街は広東系と言われています。庶民の口に入り初めたのは大正から昭和にかけてで、市民生活の成熟と共に家庭生活も豊かになり、家でも新しい料理が食べられるようになってきたからかと思われます。その後第2次世界大戦の戦中から戦後にかけて、満州からの東北料理≒餃子が入り、今や国民食ともいえるラーメンの初期段階、支那そばの屋台なども現れるようになりました。そして戦後、テレビの普及に伴い、料理の鉄人陳健一氏の父、陳健民氏がNHKの今日の料理で麻婆豆腐を始めピリッと辛い四川風の中華料理というものを紹介したことで一気に全国的に中華料理というものが広まり、受け入れられたようです。諸説ありますが、だいたいこんな風にして世界3大料理のひとつ中華料理は、長い時を経て日本に根付いたようです。

言葉としては1947年あたりから中華料理と呼ぶようになったようですが、それまでは広く支那料理と呼んでいました。食道楽はなにせ明治36年のお話。言葉遣いに現代では違和感のあるものもありますがご容赦ください。

 

さて、明治中期、啓蒙家玄斎は日本人の体格向上、健康増進のために安価で美味しく栄養豊富な豚肉を広めようといろいろと料理方法を書いています。そして豚肉は調理する前によくゆでること、生肉には寄生虫がいることも書いています。

日本では古くから野菜は「下肥」を使い人糞を使用したいわば有機栽培でしたが、日本食の伝統から言えば野菜を生食することはほとんどありませんでした。漬物くらいです。回虫の卵の付いた野菜は加熱しても、土の中、川の中、草、あらゆるところに寄生虫の卵や、寄生虫がいたのでしょう。日本人の回虫感染率は1945年当時60%を超えていたようです。昭和30,40,50年代のの幼稚園児小学生はみんな検便を義務付けられて国を挙げて駆虫に励んだ結果、70年代でほぼ0%、80年代には日本では回虫はほとんど見られなくなりました。

寄生虫のみならず、細菌も排除して、無菌国家になった日本。

ところが皮肉なことに最近ではグローバル化に伴った人や物の行き来により、海外より人や物にくっついて色々な細菌や寄生虫が日本に入ってくるようになりました。そして免疫がない日本人も外国で感染して日本に病原体を持ち込んでしまうことも起こるようになったのです。世界は病原菌でいっぱいなのにあまりに清潔になりすぎた日本では、この外からやってくる病原菌と共生したり、やっつけたりしてくれるはずの別の菌もいなくなって、人間も弱くなり、知識も亡くなって、外国産の寄生虫は定住したらどんどん増えてきますし、日本にもともといたようなもので体が健康で、免疫力が高ければ何も問題なかったような病原菌でも日本人の免疫が弱まったせいか発病するようになってきています。それなのに流通の発達でなんでも新鮮なうちに運ばれているという感覚からさまざまなものを生で食べるメニュウが登場し、食肉も清潔な成育環境から生まれるようになったためか刺身感覚で生肉を食べるのも流行っています。しかし、2011年、ユッケを食べて6歳の子がなくなったのも記憶に新しいですね。生肉を食べるには料理する人に危険を避ける知識が必要です。食材の素性が知れない場合や作り手が分からないものは食べない方が無難かと思います。なお、2012(平成24)年より牛レバーを、2015(平成27)年からは豚の生レバー、生肉は飲食店では提供してはいけないことになってます。

でも、こうして食べなくなったら食べなくなったで、安全に生で食べるための知恵もなくなってしまうのが惜しい様な気もします。いえ、私は食べませんけどね。ふぐにしてもなんにしても果敢に挑戦してはたくさんの人が死んで現在の食にたどり着いてるのが食の歴史とも言えます。いえ、私は食べませんけどね、生レバー。
長くなりました。豚料理については次回に。