第5回 嫁捜し(よめさがし)

新聞小説を追いかけるブログに休日はない!の意気込みでしたが、2,3日開いてしまいましたね。気を取り直して、続けます。
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珍しい御馳走に客はおなかが膨れ、もうたくさんというほど食べた。

「奥さん、あんまり美味しいので三杯も平らげましたが、軽いといっても南京豆は脂肪に富んだものですから、胸が焼けて気分が重たくなってモー動けません。困ったな」と、さも苦しげに見える。奥さんは含み笑いをして、

「お茶を差し上げましょうか、随分たくさんお汁粉を召し上がりましたもの。ご気分が重ければモー一度おやすみなさい。枕をお貸ししましょう。田舎では人にお餅を沢山ご馳走してその後で枕を出すところもあると言いますが、そういう時には無理に身体を動かさないで静かに臥て(ねて)いらっしゃ方がようございます。まあ、ごゆっくりとお遊びなさい、どうせ御用もないのでしょう」

「イイエ用事は大ありです。今日は平生知った人の家へ残らず年始回りに歩きたいと思うので」

「それは大変なご努力ですね。うちの人なんぞは年始回りがイヤだと申して近場の旅行に伊豆あたりまででかけました」

「僕も努力して年始に回るわけではありません。少々ほかにねらいがあるのです。というのは外(ほか)でもないですが、多くの家へうかがって良い嫁を探したいと思うので」

「おやまあ油断がなりませんね、貴君はモーそんな野心をお起こしになったのですか。うちの人の言うには貴君は大食家で有名だけど品行はお堅くて今まで一度も悪い噂を聞いたことがない、あれは関心だと申しておりました。モー2,3年過ぎてからでようございましょう」

「僕も急に欲しくなったわけではありませんが少し急ぐべき事情があるのです。僕がぐずぐずしていると国元から押しかけ女房がやって来そうなので」

「そんなお方がおありになるのですか」

「外でもありません僕の従妹(いとこ)です。そもそも僕の家は分家で従妹は本家の娘ですが、僕の学資を半分ずつ本家から助けてもらった恩もあり、もしやその娘を貰ってくれろといわれたら断るのに困ります。まだ特に親の口からも叔父の口からも何という相談が来たわけでもありませんが僕の親と向こうの親との間にその下心無きにしも非ずというのを、一昨年、帰省した時察したのです。それに僕もお情けながら大学を卒業して文学士とか何とか肩書がついてみれば国元のような片田舎では鬼の首を取ったように思うのです。ヤレ卒業祝いをするから帰って来いの、一族郎党村中の名誉だから一度帰れと頻りに催促が来るのですが、うっかり帰ると忽ち(たちまち)嫁の相談となってその従妹を押し付けられるに違いないから僕は国へも帰りません。なるべくこっちで好い嫁を貰って、その後に帰りたいと思います」

「それならばなお結構じゃありませんか。その方をお貰いなすったらよいでしょうに」

「それがね、特別に悪い女というほどでもありませんが奥州の山の中で育った田舎娘です。教育もなければ礼儀も知らず、体はと言ったら僕より大きいほどの大女、赤ら顔で縮れっ毛で団子鼻のどんぐり眼と来ていますから何ぼ何でも東京へ連れてきて僕のワイフです、と人の中へ出せません。国元の方から何とも言ってこない内にこっちで早く好い嫁を決めてしましたいのです。奥さんどうかお世話をして下さらないか」と、今の若い人にこういう事情があることがよくあるのだ。

 

○海苔汁粉というものあり。それは、餅を小さく切り、こんがりと焼き、湯に漬してやわらかくし、椀に盛って大根おろしをかけ、砂糖を少し振り、焼き海苔を細かく揉んで醤油を少し掛けて食す。

○味噌餅は餅を柔らかく茹でておき、別に赤味噌を擂り酒と砂糖で味付けして裏ごしたものを、一旦煮立てて餅の上にかけて椀のふたをする。少し蒸らして食す。

***************************************失礼な奴ですねー。大原は。

小太りでどんぐり眼で悪かったわね!あんたなんかこちらからお断りよ!って私じゃなかった。

さて、末は博士か大臣か、当時の学士様の価値とはいかほどのものであったか。

大学進学率50%、とか、少子化による無試験入学とか、定員割れとか凋落はなはだしい昨今の大学とはわけが違います。食道楽の舞台は東京なので、ここに言う大学は東京帝国大学であろうと思いますが、1877年設置1886年帝国大学令により帝国大学となりました。1897年に京都に京都帝国大学ができるに当たり、東京帝国大学という名称になりましたが、それまで大学といえばここだけ。1877年からの20年間日本唯一の大学として、ただ「帝国大学」と呼ばれていたのですから、その価値とは今と比べものにはなりませんね。一族のめぼしい子供を親戚が支えて学資を援助するとか、また篤志家が見どころのある有為の青年を援助して大学進学を助けることは珍しいことではありませんでした。成績がおぼつかなかろうが、何年かかろうが、とりあえず大学を卒業した大原は一般庶民から見れば高嶺の花。政府のお役人になり、将来安定の有望株なのでしょう。故郷のご本家では分家の長男に援助して大学を出したからにはうちの跡取りになってもらおうという考えがあっても全然不思議ではありません。それゆえ大原は心配もしているというところです。
結婚そのものは家と家との取り決めであったり、自由であったり色々ですが、家長の判断で、嫁がされたり戻されたりするため意外に離婚率も高かったのでした。
結婚年齢も概して男性は遅く、一家を構え充分暮らしていける稼ぎがあるか(というのも階層にもよりますが、政府のお役人クラスの家では奥さんは専業主婦、家事をする女中が2,3人、もしかしたら書生で住み込みの男子学生か下働きの爺やが一人くらいはいるかもしれません。慰みに猫のたまとか、趣味の秋田犬五郎丸とかを飼ったったとして、さらに子供が数人生まれたら、それらを全員食べさせていかねばなりませんから)、功成り名を立てしっかりした資産ができてからというかんじ。

大原に対してもこの奥さんはもう2,3年してからでも、と言ってます。

ちょっと待って、大原は大学出るのに何年かかってるの?田舎から出てきて予備校に入り、それから20歳くらいで帝国大学に入り、同期に送れること数年。7、8年学んで卒業したとして28歳。最初に年のころ32、3歳と紹介されてます。それをさらに待てと言われて、35,6・・・に対し、新婦は二十歳そこそこ。しかしながらこのくらいの年の差婚も普通のことでした。

そして、明治期の女学校では卒業を待たずに結婚のため退学する生徒もおり、美人は概して途中でいなくなることから、卒業までいけそうだという意味の卒業面(そつぎょうづら)という言葉までできたそうです。失礼な!
また、現代からすれば昔の方が貞操堅固で、処女性重視で、さぞ箱入りだろうというイメージですが、女学校には一旦結婚して、夫が自分の寛容性を示すためや、一応結婚はしたもののまだ若く教養を身に着けさせなければならないという考えから女学校を続けさせたり、婚約者がいる生徒たちもいて年齢もまちまちだったりするので、在校生の性に対する敷居が低く、かんたんに男性にだまされてしまうなど、キリスト教系の女学校では、生徒の貞操観念のなさに頭を痛めるという記録があります。いつの時代もでも女の子は耳年増でおませなのです。まあ上流階級ほど乱れている、ということはよくあることでしょう。

 

というわけで、写真は京都の京菓子資料館でひろった「島台」の図。

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島台って最近あまり見ませんが、よく菓子博覧会とか、ホテルのロビーとかにある、工芸菓子で、州浜をかたどった曲線の大きな脚付きの台の上に築山があって、松竹梅やほかの草花が植え込んであるおめでたい装飾のお菓子です。

平安時代に婚儀や儀式関係なく、不老長寿の蓬莱山をかたどった飾り物としてあったものが、様々な趣向を取り入れ、いつしか州浜をかたどった台に蓬莱山をかたどった築山と景色をとりいれたものとなったようです。格式のある婚儀や結納の室礼には欠かせないものとされていましたが、結納の水引細工の蓬莱飾りすらあまり見なくなった今では、これをお菓子屋さんに頼んで作らせ、飾る個人のお家はほとんどないように思います。素晴らしい和菓子の技術の保存が気になります。資料館にはこの図の何倍も大きな素晴らしい『華燭』という作品が飾られていました。撮影禁止でお見せできないのが残念です。

 

今、「華燭」と書こうとして、私のPCは「過食」と変換してくれました。そういう時代なのですね。

 

つづく