第3回 酔醒め

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「モシモシ大原さん、たいそうおうなされですね。どうなさいました、怖い夢をご覧になりましたか。モーお目覚めなさいまし」と年若い奥さんが年賀の客で、年のころ32,3歳くらいの男が酒に酔って寝転がっているのを呼び起こした。ウームと両手をのばしてようやく我に返った酔いざめの客は奥さんの顔を見て面目なさげに起き直り「どうもこれはとんだ御厄介をかけましたね。御酒(ごしゅ)を頂いてあんまり好い心持になってツイうとうとと寝てしまったと見えます。僕は御酒を飲むとどこでも構わず寝るのが癖でおおいに失礼いたしました。」と衣紋と繕い袴のしわを伸ばし手巾(はんけち)を袂より取り出して二、三度口を拭った。奥さんは下女に命じてお茶を一杯客に出させ「おやすみになるのは一向に構いませんが、たいそうおうなされでしたから、お苦しかろうと思ってお起こし申したのです。夢でもご覧になりましたか。」

「ハイ見ました。、妙な夢を見ました。腹の中で胃と腸が話をして、しきりに不平を溢しているところをみました。僕は学校にいた時分から校内随一の健啖家と言われて自分も大食を自慢にしていたくらいですから、僕の胃腸は随分骨が折れましょう。胃は極度に拡張し、腸は蠕動力(じゅどうりょく・収縮してぜん動する力)を失っているくらいだと医者が申します。学生時代に一年中脳病で苦しんで思うように勉強が出来なかったのも全く大食の結果で、消化器を害すると必ず脳へ来るそうです。僕ばかりではありません、今の学生がよく脳病だというのは大概胃病の結果でその胃病は野蛮な暴飲暴食から来るのです。僕はそのためにこちらの小山君と同時に大学へ入りながら三度も試験に落第して、同級生には残らず追い越されてしまい、去年の夏かろうじてようやく卒業できたくらいです。それも今考えてみると全く教師のお情けでしょう。試験の得点は落第点と殆ど間髪を容れず卒業者中最下位でした、アハハ。しかし、持った病で大食はやめられません。悪いと知りつつどうしても自ら制することが出来ません。今朝なんぞは雑煮餅の大きいのを18切れ食べました」

「オホホ、貴君(あなた)がものを召し上がるのはホントにお見事です。何をこしらえても貴君に食べていただくと張り合いがあります。そのつもりで今珍しい御馳走をこしらえておりますから、どうぞ沢山召し上がって下さい」

「イヤ、モー控えましょう。そんなにいただくと胃吉や腸蔵がどんなに怒るか知れません、だがしかしたいそう好い匂いがしますな、非常に香ばしくって、さも美味しそうな匂いが」と、しきりに鼻を蠢かす(うごめかす)。

奥さんは笑いながら「貴君が今まで召し上がった事のないという御馳走です、好い匂いでしょう、あれは南京豆です、ただ今南京豆のお汁粉というものを差し上げます」

「ヘイ南京豆のお汁粉とは珍しい、どうしてこしらえるのです」

「なかなか手数はかかりますけれども手数をかけただけの御馳走になります。失礼ながら台所へきてご覧なさい。貴君も今に奥さんをお持ちになるとこんなことを覚えておかれる方がお得です」

「そうですね、いかにも後学のためだ、一つ拝見致しましょう」

「拝見ばかりではいけません、少し手伝ってください」

「ハイハイお手伝い致しましょう」と、仲の良い友達の家と見えて遠慮もなく台所へ立って行った。

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まさかの夢落ち・・・。

胃吉と腸蔵の前座が終わりようやく登場人物、大原が出てきました。家でお餅を18枚も食べた上で友達の家に年始に来てお酒を過ごして寝てしまう。大学を三度も落第して、それも大食のせいと言い、友人の奥さんに台所を手伝えと言われていそいそと立ち上がる、のんびりしていてどこか憎めない人のようです。
料理を出す側としては、こういう食べ手がいることは本当にうれしいものです。作り手の苦労を理解し、しかもただ有り難がるのではなくその料理の価値をわかってくれ、しかもたくさん食べてくれるとは、この奥さんが夫の友人大原に優しいのも分かるような気がします。

私の夫の母はなかなか料理上手の人でしたが、その義母が言うにはお舅さん=私の夫の祖父が健啖家で、作るものを喜んで食べてくれたことが嬉しかったと言っていました。そして私もまた、義父母が喜んで食べてくれることはとても励みになったものです。

特に義父はとにかく珍しいものが好き。「よく知っている美味しいものと珍しいけどまずいものならどちらがよろしいです?」と聞いたら、迷わず「珍しいものをお願いします」と言われました。そして「どちらかというと洋食が好きです。魚はあまり好みません」で「南京とさつまいもは戦争中に一生分食べたのでもう結構」で私に「ヤマナカでは男がお茶を入れることになっとります」と言って紅茶を淹れてくれました。
その義父が嚥下障害になり、飲み込むことが出来なくなり、誤嚥性の肺炎で入院となり、状態が落ち着くにつれ、点滴よりおなかを動かす方が良いから、といろいろ協議した結果胃ろうという処置をとりました。認知症が進み、自分が食べていないことはあまり気になっていないようなのが救いですが、食べられない義父はやはり見ていてかわいそうです。

そして私も大切な食べ手を一人失い、さびしいです。

「チョイと腸蔵さん、この家の主は口から食べるのをやめちまったようですよ。最近は上からでなく横っちょの壁に窓を開けてそこから時折何か入ってくるようになりましたよ。こなれのいいものばかりで楽といえば楽ですがなんだか張合いもなくってねー」

「いや、それはこちとらも同じですよ。絞るだけ絞ったら全部滋養になっていって、好いと言えば好いのですがねー。今となっては上やら下やら文句言い言い働いていたのも懐かしいやね―」

なんて言っているかもしれませんね。

 

さて、大原の一言、「消化器を害すると必ず脳へ来る」は本当でしょうか?この事の真偽はわかりませんが逆もまた真なり。「消化器を動かすと脳によい」のは本当みたいです。胃ろうでも、胃や腸を動かしてして自力でしっかり栄養を取ることで、義父の意識ははっきりし、物事の判断も少しはできるようになりました。

腸は第二の脳とか。おなかを動かすことは大切ですね。
というわけで、今日は思い出のラムのソテー、義父の好物の一つです。ローズマリーの香りは脳のリフレッシュにも良いそうですよ。

 

つづく

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