第13回 脳と胃

何と1年と1か月ぶりのブログ更新です。
一年は早いようでやはりそれなりの時間を重ね、世の中は変わらぬようでも変わっております。何と言ってもこのブログ、タイトルに平成という年号をつけております。こんなに早く平成が終わるかも、という事態になるとは思いませんでした。綾小路きみまろではありませんが、このブログ「平成のうちに終わるかしら?」

まだまだ端緒に着いたばかりのこのお話、長いお休みをいただきましたが、先を急ぎましょう。

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 大食の弊害は天下に満ちている。どのような国かを知りたければまずその国の人民の食物を調べてみるべきだ。主人の中川も慨然として「大原君、お強鉢(おしいばち)のことはかねて話に聞いていたが、実際そんなものか。しかしそれでよく生きていられるね胃袋が破裂しないで生命を保てるね。そういう大食の人でも六十や七十まで生きていられるのだろうか」と言った。

大原は「生きるから妙だ。七十八十になってもまだ若いものに負けないほど食う人がある。その代わり満身の栄養分を胃袋へつかってしまう。脳なぞは更に発達せん。だいたい人は生きているために食物を摂るのだけれど、大食の者は食うために生きているのだ。あれで脳を使ったらとても生きてはおられんよ。よく注意してみたまえ、大食の人は必ず脳が鈍い。脳病に悩む人は大概胃を壊すからだ。第一僕が何より証拠ではないか。君らと同じように大学へ入って試験のたびに落第して三年も遅れて何とか卒業出来たのは全く脳が鈍いからだ」と自分を例にとって答えた。これほど確かな話もない。

中川も笑い出し「それほどよく知っているならちょっと食物を控えたらよかろう。脳が鈍いのはあんまり自慢にもならんではないか」と言った。大原は「それがね、酒飲みの禁酒と同じことで、悪いと知りつつなかなかやめられん。自分でもよく知ってるが、食べ物に向かうとどうしても抑えることが出来ん。腹いっぱいに飽食した後は気が重くなってしばらくぼうっとして、脳の働きは一時全く休止するのがよくわかるよ。それは全く全身の血液が胃袋へばかり集中して脳に送るべき血液が空虚になるからだね。たとえて言えば脳の機械へ注すべき油を胃の方へ取ってしまうからだね」と言った。

「さあ、大体においてはそうに違いないが近頃研究された最新の学説によると多食した後に脳の鈍くなるのは食物の中毒作用というね。科学上の研究からその新事実が発見されたけれども妙なものさ。どんな食物でも人の体内に入ると間断なく化学作用を起こしている。決して漫然と遊んでいるものはない。健全な胃に適度な分量だけ入った食物は直ちに消化されるけれどもそれ以上の食物は胃の消化作用を受けない。受けないといってボンヤリとしてはいない。食物自身が一種の腐敗作用を起こし中毒性のものと変じて直接に脳神経を刺激する。そのため脳の働きが鈍くなって気が重たくなるような眠くなるような心持がするのだそうだ」と中川が言うと、大原は「なるほどそうかもしれん、少々気味が悪いね」と言った。「ところが君のように毎日食物中毒を起こしていては脳がすぐに消えてなくならなければならん。そこに都合の良いことがある。人体ののどには甲状腺と言っておおきな筋がある。今まで、何の働きをする筋だかわからないで、無用の長物に数えられていた。ところが近頃の研究で甲状腺は全く食物の中毒作用を防御する大きな働きがあることを発見した。常に食物の消毒作用解毒作用をして脳を保護する大忠臣だとわかったんだよ。ちょうど今まで無用視されていた副腎が澱粉消化の大効用ありと知られたようなものだ。としてみると君の脳が全く自滅してしまわないのは甲状腺のお蔭かもしれないぜ」と中川。「ありがたい訳だな。お登和さん、こんなお話を聞くと少々心細くなりましたから、もう晩餐はおしまいにしましょう。どうぞお茶をください」と大原は言った。お登和は微笑み「さし上げたくてももう種が尽きました。残らず貴君(あなた)が召し上がっておしまいで。おほほ、それでもお皿だけは残りました」と冗談を言った。

 

○食物が胃の中で中毒作用を起こしたものは甲状腺で防御するが、腸に入って門脈へ流入する毒成分は肝臓で消毒および解毒される。故に肝臓に疾患があると人は食物中毒に悩む物である。

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腹膨れれば、目の皮たるむ。

古今東西普遍の事実でしょう。食べないで生きていける人間はいないので、人類の歴史は食べるための戦いとも言えます。そして、食べることは大きな喜びであり誘惑で、そこに大きな落とし穴があったりします。

さて、おなか一杯に食べることの弊害ですが、まさに脳が鈍る、眠たくなる、のはどうしてでしょう。大原はたくさん食べた胃が膨れると消化のために体中の血液が胃に集中して脳が虚血状態になるように気がすると言っています。そして、中川の最新知識によると「食物中毒にして、その毒は甲状腺で防御される」ということが書いてあります。

 

食べた後にボーっとしてしまう感じは脳に血がいかなくなった、という感覚がぴったりしますが、現在では食後の眠気には脳内の血流はあまり関係ないということが分かっています。食べた前後の脳内の血流量はあまり差がないという研究結果も出ています。

21世紀の今よく言われるのは、血糖値が急上昇するとか、消化という行為が大変体に負担をかける、というようなことですね。

食べた後急激に血糖値が上昇するためそれを抑えるインシュリンが働き、急激に血糖値が降下するため、脳内にエネルギー源のブドウ糖が不足して脳の活動が鈍る、ということや、糖尿病に人などはそのインシュリンの出方が不安定なので、血糖値の上昇下降が不安定になることが、眠気を催したり、脳の活動低下をおこすといわれます。

そして、それらを防ぐには血糖値の上昇を穏やかにするため、食べる順を野菜を先に食べてから、ほかの料理を摂るベジファーストや、インシュリンを出す膵臓や、たくさんの酵素を作り出し解毒作用をする肝臓を強化するためには、この大原や中川の時代にはなかった食品添加物を避けるということ、あと何より腹八分目、過食を避けるということを言われています。また、こうした、血糖値の急上昇、不安定な血糖値を引き起こすのが炭水化物の消化によることが大きいため、炭水化物の摂取そのものを控えたり、糖質制限を行ったりするのもポピュラーな知識となってきています。

 

お昼ご飯のあとは眠いですよね。ある人が、高速道路のSAのメニュウをもっと工夫したら、居眠り運転が少しは少なくなるのでは?と言っていました。確かにSAの食券自動販売機、炭水化物ばかりですね。誰か、提案してくれませんかね?

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第12回 胃袋

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ご無沙汰したしました。新年の場面から始まる「食道楽」に合わせ、ちょうどこのブログも新しい年を迎えたところ、受験、卒業入学シーズンを超えて、一気に春となってしまいました。春爛漫、気分も一新して、また再開です。

場面はちょうど大原がお目当てのお登和嬢の気を引こうと手料理をいただいているところ。さて、大原の計画は上手く運ぶでしょうか。

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人の無常は怨んでも仕方がない。

大原はせめてお登和嬢の手料理を飽食してその心をとらえようと「お登和さん、あんまりお料理が美味しゅうございますからお汁をもう一杯お替りをお願いしたいもので」と苦しさをこらえてお替りの催促をした。

娘はほめたたえられるほど張り合いがあって「ハイ何倍でもおかえ下さい。ついでにそぼろと角煮もモー一皿ずつ召し上がったら如何です。豚饂飩をおかえください」と言う。大原は「ハイハイ何でも戴きます。あなたのお手料理とあるから格別の味がいたします」と答えると、お登和は「どう致しまして誠に不出来でお恥ずかしゅうございます。国の母がおりますともっと美味しく拵えますけれども」ととかく返事が横にそれる。大原はもどかしそうに「イイエあなたのおこしらえなすったのが何よりです」と言葉に力を込めて言うが娘はよく聞きとらずに台所へ立っていった。

主人の中川が大原の言葉に答え「君、僕の母は料理が上手だよ。妹如きの者ではない。母の手料理を君に食べさせたいね」と言った。大原は「イヤ僕は妹さんのに限る」と言った処へお登和嬢がお替りの品々を持ってきた。

大原は手を出して盆の上より受け取り「これは憚りさま(はばかりさま)、今度は最初よりもたくさんですね。少しお待ちください、もはや酒の刺激力が利かなくなりましたから甚だ失礼ですけれども少々御免お許し願います」と言った。「何をするのだ」と主人は言ったが、大原は「妹さんの前で甚だ相済まないけれどもせっかくの御馳走を戴くために今袴を脱いで帯を弛める。さっきから帯が腹に食い込んで痛くってたまらない。帯を弛めるとまた二、三杯は食べられる」と言った。

「驚いたね、腹の皮はゴム製に違いないが、君のはもはや弾力失って伸びたら縮まらん。お登和や、あんまり沢山お盛でない。もし大原君の腹の皮が破裂したら大変だ。しかし大原君、君の腹の容積にも限りがあるだろうが、よくそんなに入るね。一朝一夕に胃袋を拡張させようとしても到底そうはなれる者ではない」

「全く子供の内の習慣だ。僕の田舎では赤子がまだ誕生日も来ない内から飯でも餅でも団子でも炒り豆でも何でも不消化物を食べさせる風習があるから大概の赤子は立つことも碌にできなくても茶漬け飯を茶碗に一杯位食べるよ」大原がそう言うとお登和は思わず「オホホ」と笑い出した。

主人はおかしさよりもは心配が先に立ち「それではお腹ばかり膨満してしまい身体が発達しないだろう」ときいた。

「勿論さ、大抵の小児は脾疳(ひかん)という病気のように手も足も細く痩せて腹ばかり垂れそうになっている。赤子というものはこういうものと僕は信じていたが東京に来て初めて手足の太った赤子を見た。それでもいい具合になってるもので十才以上まで成長すると山の奥の寒村だから自然と山や谷を飛び歩くようになって手足も初めて発育する。その代わり十歳くらいの子供でも東京辺りの大人くらい食べ物を口にするね。大きくなったら三倍ないし五倍だろう。女でも大概一升飯を平らげる。誰だか僕に話したよ、僕の地方へ来て農民が重箱より大きな弁当箱を下げているか家内中の弁当を一人で持っていくのかと思ったら食べている時見たらひとりで平らげたと驚いていた。僕なんぞは国に帰るとまだ小食のほうだよ僕くらいの年の者は雑煮餅の三十枚くらい平気だからね。よそのうちへご馳走のお客にでも行ってみ給え、お強い鉢(おしいばち)といって倒れるまで食べなければ承知しないから」と、大原は答えた。

日本の地方にはいたるところにこのような弊害があるのだ。

○小児の時胃袋を広げてしまうのが生涯の病となる。親たるものはよく注意をすべし。

○我が国の習慣として小児が茶碗の中の飯を残すともったいないから食べておしまい、と母親が強いて子供に用量以上のものを食べさせるのは最も大きな害である。牛乳が少量コップに残っても、もう少しだからみんなお飲みと強制するのも害は同じである。子供は正直なもので、胃が食べ物でいっぱいになればイヤと言う。それ以上を強いれば必ず胃袋を拡張する。

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お久しぶりです。みなさまいかがお過ごしでしたでしょうか。

いつの間にか春になりました。うちの胃拡張娘も御多分に漏れず黒いスーツを着て入学式、まるで女子大生のように見えました。っておかげさまで女子大生になったのですけど何かと多事多端、ブログが書けずにおりました。

『食道楽』は全360回。とりあえず今日で12回・・・。先は長いですが、「受験生の母」も済んだことですし、楽しく、スピードを上げて、というか、きちんと定期的に書いていきたいと思います。


この回で弦斎は大食の害を説いていますが中でちょっと怖いことを言ってますね。大原の田舎では赤ん坊の内からおなか一杯にご飯を食べさせおなかばかり膨れて手足が細い子供になってる、とか。

脾疳というのは小児の慢性消化器障害で、身体はやせるのに、腹部が以上に大きくなり、広辞苑によると食欲が不定期に増進するとなっています。

大原の田舎がどこであるかわかりませんが以前民俗学の本か何かで、とにかくたくさん食べる、食べさ

せる地域の話を読んだ記憶があるので、こういう風習の地方はあったのでしょう。科学的というか、合理的な育児理論などないころ子供にはとにかく食べさせることが大切であり、命をつなぐことだという考えでしょうか?

そして昔だからって貧しいばかりではないのですね。こんな食いしん坊の大原も子供の時からの大食いでお腹を養ってきたようですし、野良に出る農民も重箱のようなお弁当箱を下げて働きに出ていたようですから、豪華でなくともしっかり食べるだけのコメや麦、味噌などはあったということですね。

しかししかしそんなに食べたら仕事もできないのではないかしら。

お昼は軽く、豚饂飩でもどうでしょう。

豚饂飩って初めて。西日本の人間なので、肉と言えば牛肉、肉うどんは牛肉の甘辛く炊いたものを載せた饂飩のことです。まあ、肉うどんがあるなら豚肉饂飩もあっていいか…と作ってみました。

昆布だしに、先にさっと熱湯をくぐらせた豚ばら、油揚げ、豚肉と相性の良い大根を入れ程よく炊けたところにしょうゆ少々で極あっさりとしたお饂飩にしました。

薬味に生姜を載せて。

 

美味しうございました。

 

 

 

第11回 門違い(かどちがい)

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***************************************手料理を人にふるまうものは先方の胃袋が耐えられるか否かは関心なく、多く食べられることを快く思うという癖がある。主人の中川は自慢顔に言った。「大原君、その四角な大きな肉を試してみ給え。箸で自由にちぎれるよ。それが長崎の有名な角煮と言って豚料理の第一等、本式にすると手数も随分かかるが非常に美味いものだ。一つ遣ってみ給え」と。しきりに薦められ、客は箸でその肉をちぎり「なるほどちぎれる。これは美味い。これは非常だ。どうしてこしらえるのだね」と聞いた。主人は笑いながら「これはうっかり教えられん。伝授料がいるよ。長崎でも同じ角煮と言いながら家によって少しずつ料理の仕方が違う。僕の家のは支那人直伝の東坡肉というのだ。今に君が家でも持ったら妹に銘じて君の御細君に教えて進ぜよう」という。大原は失望気味に「イヤそれは少しお門違い、僕は妹さんの調理された物を食べるのが望みだよ」と答えたが、当のご本人の妹も大原の心を察せず「お教え申す程にはできませんが奥さんがいらっしゃいましたらお互いに知ったことを交換していただきたいのです。小山さんにも先日お願いして南京豆のお料理を習いに行くつもりです」と何処までもよそよそしい。大原は張り合いがなくて「困りましたね、そうおっしゃっては。僕のような者の処へ嫁に来てくれる人がありません」とひそかに先方の気を引いてみる。生憎娘は何とも答えず主人が冗談に「アハハ、来てくれる人があっても君の大食いを見たら肝をつぶして逃げ出すだろう。お登和や、豚饂飩(ぶたうどん)が出来ているならわたしにおくれよ」と言った。妹は「ハイ、お客様にも差し上げましょうか」と大原の様子をうかがったが大原はうち萎れて(しおれて)黙っている。今度はお登和が張り合いなく「まことに不出来でお口に合わないでしょうから」と言ったが、謙遜の言葉も大原の耳には恨み言のように聞こえ「イエ、いただきます。なんでもいただきます。あなたのお手料理なら死ぬまでお断りしません」と自分の意気込みを知らせるつもりで言った。この時娘は料理とともに酒の調子を持って来て「兄さん、やっとお燗もできました。料理の方で火を使いましたからお湯がみんな冷めてしまって遅くなりました」と食卓の上へ置いた。主人は深くも飲まないと見えて小さな杯へ半ばほど注がせ「大原君、きみはどうだね」

「飲むさ、酒が来ればまた食べられるからね。僕は酒を美味いとは思わん。むしろ不味くって我慢する方だが腹が張った時飲むと胃を刺激して再び食欲を起こす。僕の酒は食うために飲むのだ」

「なんでも食うことばかり。アハハ、お登和や、一つお酌をしておあげ」

「有難い。この酒ばかりは特別に美味いよ」

「上等の酒を吟味してあるからね」

「ナニ、そういうわけではない。酒のおかげでまた食べられる。豚饂飩も結構だね」

「まだこのほかに豚と大根(だいこ)の料理だの、豚とマカロニだの、豚とそうめんだの、豚料理はだくさんあるから追々ご馳走することにしよう。折々遊びにやって来給え」

大原は「毎日でも来るよ」と言ったが、そういったのはご馳走を目的にしたのではない。しかるに娘は誤解をしたようで「ホントにお早く奥さんをお持ちになるとようございますね、私も遊びにうかがって色々なものをこしらえますのに」と言った。大原は再び失望して「どうぞもう奥さん奥さんと言ってくださるな。情けなくなります」

「情けないとはおかしいじゃないか、何が情けない」と聞いた。

「情けないことがあるんだよ」と大原は言ったが我が心到底他人には通ぜず。

 

○豚饂飩は一旦湯煮た豚を小さく切り、湯煮た汁に味をつけてよく長く煮た処へ饂飩を入れて再び少し煮る。汁は塩辛いくらいにし、少ないほうがよ好い。うどんの上に肉を持ってだすべし。

○豚と大根の湯煮た汁で煮るのが良い。しかし下等肉で白肉(脂身)の溶けた汁は不可。

○豚とマカロニは、マカロニを鍋で湯煮る時、下へ竹の皮かあるいは煮笊を敷かぬと焦げ付く癖がある。豚の湯煮汁にて湯煮て豚とともに味をつけて煮るべし。

○マカロニとは西洋の干し饂飩とも言うべきもので、中に孔(あな)がある。伊太利人は我が国のそばのように好んで食べる。西洋料理には種々に使うものである。マカロニと赤茄子(トマト)とを共に料理すれば味が良い。西洋では赤茄子はマカロニに付き物という。マカロニは伊太利をよしとする。

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お門違いよ。って時代劇なんかで出てくるなんだか粋な言い回しだと思っていましたが、大原には切実ですね。それは君、お門違いだ、大きな誤解だよ、実は・・・と言いたい、ズバリと求婚できぬまま…ってあなた、まだ出会ったばかりでしょう。そもそもあわよくば結婚しようと思って年始回りに来ているとはお登和でなくてもだれも思っていないでしょうが、この少々強引な設定、お登和と大原の恋の道行きが食道楽が大ベストセラーになった一因のようです。

さて、写真は中川の言う「豚とマカロニ」です。どんな料理かわからなかったので、とりあえず豚バラの塊をしばらく茹で、その鍋に、マカロニではありませんがうちにあったパスタ、ペンネを入れてさらに一緒に茹でました。豚肉は塊なので、それを薄く細く切り、深めのフライパンで炒め、そこに「付き物」と書いてあるので赤茄子のソースを入れ、さらにパスタを入れて和えました。塩コショウで味付けをしましたが、ちょっと物足りなかったので、パルミジャーノをすりおろし、さらに冷蔵庫に残っていた調理用のモッツァレラチーズも投入しました。言ってみればペンネ・ポモドーロですね。普通に美味しうございました。

でも私たちに普通でも明治に人には驚愕の味だったかもしれません。

そもそも赤茄子は食べるものか?

トマトは江戸時代には日本に入っていましたが、はじめは園芸、観賞用であったようです。西洋野菜として、食用と認識されるのは明治も半ばちょうどこの食道楽の連載が始まったころで、まだまだ食べるのも恐ろしかった人々も多かったことでしょう。夫の祖母(明治40年?生まれ)は医者の娘ではありましたが、田舎の人で、幼いころ家でトマトを貰ったがどうしていいかわからず家族で裏山に埋めたと言っていました。赤い食べ物は怖がられる場合があったようです。
赤茄子とマカロニを紹介している食道楽がいかに食の先端であったかということですね。都市と田舎の差が今よりずーっと大きかった時代でした。

 

第10回 豚の刺身

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***************************************客の大原は腹中に新たに食べ物を入れる余地はなかったが心に期するところがあったので無理に端を執り「なるほど、この汁は美味い、いろいろな野菜も交じっているけどこの豚は口の中で溶けるようだね」

「それは琉球の塩豚だもの。琉球の塩豚は有名なもので牛肉なんぞより数倍もする御馳走だぜ。豚だー、くらいに軽蔑されは困る」

「イヤ、どうして軽蔑ができるものか、琉球も豚は上等かね」

「種が支那から来ているし支聞く方も進んでいるから琉球豚は上等だよ」

「どうして支那豚はそんなに良いのだろう。やっぱり種類を改良したのかね」

「もちろん古来から食用にしていてよい種類を繁殖させた結果もあろうけど、一つには地勢にあるそうだ。第一豚の元祖のイノシシの肉が欧羅巴辺りのは非常に不味くって支那のは非常に美味いそうだ。欧羅巴は土地が平たんでないからいのししが常に筋肉を使うからその肉が硬い。支那は地勢上豚までノソリノソリと育つから肉が美味い。豚は猪を家畜にしたものだ。欧羅巴の豚も最初は猪の通りに肉が硬かったのを支那豚を輸入して今のように改良を加えたものだよ」

「なるほどね、一口に豚というが豚にも色々区別がある。この刺身のようになっているのも大層美味いがこれはどうしたのだ」

「それは豚の刺身というのだが、君のような下宿生活でも一度拵えておくと五日も六日も持つから試してみ給え。訳はないよ。まず、豚の三枚肉の上等を買ってきて、そのまま大きな鍋へ入れてよく湯煮る(ゆでる)。その肉の大きさによって一時間から二時間も湯煮ると杉箸がスーッと楽に透る、それがちょうどよい頃あいだ。その時別に大きな丼鉢に上等の醤油を注いでおいて今の湯煮た肉を直ぐに漬けておく。それが一日もすぎると醤油が肉に浸みて美い(うまい)味になる。イザ食べようという時小口から極薄く切って溶き芥子を添えるのだ。一つ試してみ給え。しかし僕のうちはまた少し贅沢にそれをまた一時間ほどテンピに入れて蒸し焼きにしたのさ」

「テンピとは何だ」

「俗にいう軽便暖炉だよ。しかし君らが使うにはカステラ鍋で沢山だよ。小さいから火が少しで済む。その鍋の中へすぽりと入るくらいなブリキの皿のような斧を作ってそれを鍋に知れて上下へ火を置けば牛肉のロース(=ロースト)もできるし、大概な西洋菓子もできる」

「さっそくそのお刺身を遣(や)ってみよう。こっちの皿にある細かいものは大層サッパリとしているが何だね」

「それは豚のソボロといって豚の嫌いな人にでも食べられる。本式にするとソボロ俎板(まないた)といって立て目の俎板で肉を細かく切るのだが、ここにその俎板はない。豚の肉を細かく糸切りにしてグラグラ沸騰している塩湯へ少しずつ落として、ザッと湯だったら網杓子で笊へ掬い上げてよく水けを切って、今度は他の鍋で油の中へ入れて炒り付ける。それから水一升に酒一合の割合で二時間ばかり煮て、牛蒡と糸蒟蒻ときくらげがあればなおいい。あるいはほかの野菜でも時の物でも構わん。野菜をやっぱり細長く切ってそれを加えて砂糖と醤油で味をつけるのさ。葱を細かに切って薬味にして食べると塩ゆでしてあるから誰も豚とは思わんよ。女にご馳走するならこれが一番だね」「僕も豚ではないと思った。実に美味くって頬が落ちる。これは全く御令妹のお手料理だからこんなにおいしいのだね」と大原は柄にもなくお世辞を言った。娘も少し鼻が高いようで「どうぞ、その角煮を一つ召し上がって下さい」と自分の最も自慢の料理を勧めた。

 

琉球の塩豚にも色々の種類がある。その中で縄巻と言い、肉の周囲へ塩をつけて荒縄でグルグル巻いたものが上等である。

琉球の塩豚を料理するにはひと晩くらい水につけて塩気を出し、いったん湯煮て薩摩汁のように種々の野菜とともに煮るのが良い。また刺身にもなる。種々の豚料理に使うこと。

○ソボロに用いる豚の肉は最初塩で揉みそれを沸騰したお湯に入れてもよい。

○ソボロは汁が沢山あるくらい煮つめてよし。野菜もなるべく小さく切るのが良い。

○テンピは西洋食品屋にある。壱円五〇銭なり。

○カステラ鍋は東京市浅草区蔵前片町瀬村正兵衛氏方にある。壱円五〇銭なり。

○豚は生肉で蛋白質一割五分、脂肪三割七分ある。ハムにしたものは蛋白質二割四分脂肪三割六分となり、滋養分は牛肉に優る。故に長く似てよく調理すれば滋養分は牛肉に劣らず。

○豚の糸切りの塩ゆでにしたものを煮て、炒り豆腐に混ぜ、再び炒ってもよい。

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漸く第10回目まで来ました。そして今回は料理のレシピらしきものも出てきましたね。明治の啓蒙家弦斎がどのような料理を紹介するのか興味津々です。

豚のソボロってどんな料理なんだろう?書いてある通りに再現してみようと思いましたが、とりあえずはタイトルにもある「豚の刺身」を。

白ネギの青い部分と生姜一かけを入れ、豚バラ肉を二時間ほどゆっくり茹で、柔らかく湯だったところで醤油に漬けて一晩おきました。お醤油以外にあれこれ入れてみたい誘惑に駆られましたが、そこはレシピ通りにシンプルに醤油だけで。

これは、とても懐かしい味がしました。白い脂身も、口の中でとろっと溶けるものの脂っこくありません。第9回で説明されていた通り、煮れば煮るほど軽くなるというのもうなづけます。脂身を食べるのは、油分のほとんどない食事をしていた当時の人にはとても特別感があったことと思います。明治32年生まれの祖母は健啖家で、97才で亡くなるのですが、かなり晩年でもステーキなどはここがおいしい、と脂の部分をおいしそうに食べていました。しっかり焼いたり、湯がいたりして臭みさえなければ牛や豚の脂身はコクがあり美味しく、滋養に富み、元気が出る食材であったことでしょう。児童文学者石井桃子の思い出に、明治の末、桃子の祖母が、元気が出ると言って薬のように豚の脂身を買いに行くという記述があります。

豚肉の茹で汁は冷たいところにおいておくと表面を白い脂がびっしりと覆いますので、そのまま脂をそっと掬い取ると澄んだ豚のスープが取れます。中華炒め、中華スープ、ラーメンのスープなどに使えば美味しくいただけます。

そして、豚の角煮。これも書いてはありませんが、砂糖醤油などの汁で煮る前に、しばらく下茹でして使いました。コックリと煮上げてもしっかり下茹でして脂を落としてあるので、しつこくなく、お箸で切れる柔らかさ。こちらも一度冷まして味をしみこませ、表面を覆う白い脂を取り除いてから温め直すとよいと思います。

また、ここで採れる白い脂はラードとして炒め物などに使われるとよいでしょう。

また、新たに出てきたテンピという調理器具。うちでは大正生まれの伯母も昭和一けた生まれの母もそう呼んでいましたからオーブンのことだとすぐわかりましたが、そういえばテンピという言葉も絶えて久しく聞くことがありません。オーブンのことをテンピと呼ぶ人はもうあまりいないのかもしれません。テンピは天火。石釜や、薪をくべる据え置き式の大きなストーブ=オーブンではなく、金属で作った箱を火の上に置き、全体を熱して熱い空気で中のものを調理する方法なので、箱の上側=天にも火を置くというところからこう呼ばれるようになったのかな?と勝手に推察しています。

中川が大原に勧めたカステラ鍋というものは写真にある江戸時代のお菓子の本にも載っていました。右ページ女性の足元の平たい火鉢の上に置かれている平たい四角の鍋がカステラ鍋のようです。上に炭が置かれて盛んに燃えています。

と、ここで、思い出したのが、ダッチオーブン。今日、友達が家の外で炭をおこしてダッチオーブンを使いアクアパッツァを作ってくれたのですが、カステラ鍋はまさにダッチオーブンと原理は同じですね美味しいアクアパッツァをいただきつつカステラ鍋を思う午後、美味しうございました。

 

 

 

第9回 豚料理

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新しい年ももう半月以上過ぎてしまいましたが、新年の場面からから始まる『食道楽』。ちょうど時期もあっているので、頑張って追いかけていきたいと思います。

本年もよろしくお願いいたします。

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主人の中川は熱心に豚の弁護を始め「大原君、僕は日本人の肉食を盛んにするため豚の利用法を天下に広めたいと思う。豚の肉は牛肉よりも値が安くって上手く調理すると牛肉より美味くなる。豚の肉は全く調理法次第だ。価値だって調理法次第で牛肉よりはるかに高くなる。生の肉を買ってみたまえ、東京辺りでは極く上等で二十二、三銭くらいだろう。腿の肉はずっと安い、買う場所によると十銭以下だ。その腿がハムになると和製で一斤三十銭から三十五銭さ。亜米利加ハムは一斤五十銭くらいだが仏蘭西性の上等ハムになると一斤一円二十銭する。一斤一円二十銭するものは牛肉にはない。西洋料理でも上等ハムの料理は牛肉料理より貴いとしてある。同じ豚でもそんなに違うじゃあないか、君が前に食べたのはどんなふうに料理したものだったんだい」

「牛肉の煮込みのように鍋の中へ豚の生肉を打ち込んで(ぶちこんで)煮たのさ」

「あはは、それこそ言語道断乱暴狼藉というものだ。長崎あたりでは昔から豚の生肉には毒があるといって決して直ぐ煮たもの食べない。西洋料理ではたいがい一度湯煮て(ゆでて)から使う。豚の生肉には例の寄生虫が沢山いる。それに生肉は脂肪が強いからたくさん食べると身体へ腫物(はれもの)ができる。おまけに消化も悪い。その代わりハムにでもすると消化が良くって腸チフスの後の最初の肉食にはハムを与えるというくらいだ。豚肉の生肉を直ぐに煮て食べるほど体に毒なことはない。第一味が悪い。決して上手くない。豚の肉や猪の肉は何の料理にするにも先ず大きな切り身を二時間くらい湯煮て杉箸がその肉へ楽に通る時を適度として一旦引き上げてそれから煮るなり焼くなりしなければならん。あるいはそぼろ料理のような小さく切ったものは塩湯で湯煮て油で炒りつけてそれから二時間も煮抜くのだ。生肉を直ぐに煮るようではとても豚の味を知ることはできんね」

「そうかね、そんなに湯煮たり煮たりしたら味が抜けてしまいはしないか。白いところなんぞは溶けてなくなるだろう」

「白い脂肪が溶けて消えるようなのは食用に不適当な下等な豚だよ。上等の肉の脂肪は煮るほど軽くなって溶けない。豚の肉の上等なのは三枚肉とも七枚肉とも言って、赤と白の段々になったところだ。知らない人は赤いところばかりくれろ何ぞと腿の赤身の一番悪いところを買って、良いところを捨ててしまう。赤いところでも上等のロースならほかに使い道があるけれど、白いところは煮れば煮るほど美味くなるのだよ。もし豚の肉を湯煮てみて、赤いところは硬くなり、白いところは溶けてドロドロになる様だったら非常に粗悪な食料を与えた豚で食用にはならないんだ。東京では折々そんなのを売ってるようだからよほど吟味して買わなければならん。上等の食物で飼った豚はよく煮るほど赤い肉が柔らかくなって白い肉も決して解けない。全体東京辺りの豚は乱暴だよ、二十貫もあるような親豚を屠殺して食用に売るから豚が硬くって味も悪い。先日小山君にご馳走した時はそれでしくじった。長崎あたりで食用にするのは子豚ばかりだ。親は種豚にするけど食用にはしないんだ。子豚の肉は柔らかくて好いけどもう一層美味いのは去勢した豚だよ。近頃は西洋からヨークシェアだのバークシェアだのいろいろな豚の種類が来るけれども、あれはみんな支那豚を種にして欧羅巴在来の種類を改良したものだよ。どうしても豚の元祖は支那だから豚の種類も食用に適しているし料理の仕方も豚は支那風のが一番うまいね」と豚のために気炎を吐く。そばより妹が「もし、兄さん、お汁が冷めるといけませんから早く召し上がりませ」と言った。

 

○豚の生肉には肉類の寄生物中最も恐ろしき旋毛虫及び嚢虫(のうちゅう)あり。人がもし半熟の豚肉を食すれば旋毛虫が体内で発育し大きな害を招く。また、嚢虫は人体に入って條虫(さなだむし)となる。

○豚の刺身を上等に作るには、最初肉片の両側に塩を塗り、鉄串で肉に孔(あな)を開け、塩が中にしみ込むようにし、本文のようにゆでたそのまま煮汁の中に一昼夜漬け置き、翌日取り出して煮醤油につける。こうすれば一層味がよくなる。

○本文中各項に出てくる献立は新しい料理法を示すのが主な目的で無理な配合が多い。読者はそのことを心して読んでいただきたい。

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「この本に出ている献立は新しい料理の『方法』を示すのが狙いだからレシピには無理のあるものが多い。そこのところ夜・露・死・苦」こんな注釈をつけてまでいろいろな料理を紹介しているのが面白いですね。

 

時は明治。300年の眠りから覚めた日本に怒涛のように新技術、新風俗、目新しいものが流れ込み、庶民の生活も短期間に目覚ましく様変わりしていった時代です。長らく肉食を禁じていた国民が豚や牛を口にすることは精神的にも大変な転換だったと思います。米と野菜、せいぜい魚の食事、その中で魚の格付け一番はやはりタイというところでしょうが、江戸料理はあっさりすっきりした味が身上、今や絶滅寸前、食べつくされそうな勢いのマグロでさえも「脂っこくていけねえや、汁に脂が浮くなんざぞっとしないね」とばかりに下魚(げぎょ)に分類されていました。そこにまだなじみのあるカモや小鳥などの個体として小さ目の生き物ならまだしも牛馬、豚などを食らうとなればどんなにか恐ろしく、しかし誰かが食べて美味と聞けばどんなにか好奇心が刺激されたことでしょう。しかしながら豚を食べるのはなかなか一般的にならなかったようです。

 

 豚肉の使用が広く一般化するのは、本文にあるように、中華料理の普及に負うところが大なのですが、(江戸初期に明の僧隠元によって京都にもたらされた普茶料理は別として)日本での中華料理は江戸初期に長崎に伝わったものが京、大阪、それから江戸へと伝わります。しかしこのときの中華料理は長崎では卓袱料理として開花しますが、ほかの土地では中国人の食べ物という位置づけで、なかなか日本人の一般家庭の食事にはならなかったようです。神戸、横浜などの南京街の主に中国人労働者の食事、という認識だったようです。ちなみに長崎に伝わったのは福建系の料理、その他の中華街は広東系と言われています。庶民の口に入り初めたのは大正から昭和にかけてで、市民生活の成熟と共に家庭生活も豊かになり、家でも新しい料理が食べられるようになってきたからかと思われます。その後第2次世界大戦の戦中から戦後にかけて、満州からの東北料理≒餃子が入り、今や国民食ともいえるラーメンの初期段階、支那そばの屋台なども現れるようになりました。そして戦後、テレビの普及に伴い、料理の鉄人陳健一氏の父、陳健民氏がNHKの今日の料理で麻婆豆腐を始めピリッと辛い四川風の中華料理というものを紹介したことで一気に全国的に中華料理というものが広まり、受け入れられたようです。諸説ありますが、だいたいこんな風にして世界3大料理のひとつ中華料理は、長い時を経て日本に根付いたようです。

言葉としては1947年あたりから中華料理と呼ぶようになったようですが、それまでは広く支那料理と呼んでいました。食道楽はなにせ明治36年のお話。言葉遣いに現代では違和感のあるものもありますがご容赦ください。

 

さて、明治中期、啓蒙家玄斎は日本人の体格向上、健康増進のために安価で美味しく栄養豊富な豚肉を広めようといろいろと料理方法を書いています。そして豚肉は調理する前によくゆでること、生肉には寄生虫がいることも書いています。

日本では古くから野菜は「下肥」を使い人糞を使用したいわば有機栽培でしたが、日本食の伝統から言えば野菜を生食することはほとんどありませんでした。漬物くらいです。回虫の卵の付いた野菜は加熱しても、土の中、川の中、草、あらゆるところに寄生虫の卵や、寄生虫がいたのでしょう。日本人の回虫感染率は1945年当時60%を超えていたようです。昭和30,40,50年代のの幼稚園児小学生はみんな検便を義務付けられて国を挙げて駆虫に励んだ結果、70年代でほぼ0%、80年代には日本では回虫はほとんど見られなくなりました。

寄生虫のみならず、細菌も排除して、無菌国家になった日本。

ところが皮肉なことに最近ではグローバル化に伴った人や物の行き来により、海外より人や物にくっついて色々な細菌や寄生虫が日本に入ってくるようになりました。そして免疫がない日本人も外国で感染して日本に病原体を持ち込んでしまうことも起こるようになったのです。世界は病原菌でいっぱいなのにあまりに清潔になりすぎた日本では、この外からやってくる病原菌と共生したり、やっつけたりしてくれるはずの別の菌もいなくなって、人間も弱くなり、知識も亡くなって、外国産の寄生虫は定住したらどんどん増えてきますし、日本にもともといたようなもので体が健康で、免疫力が高ければ何も問題なかったような病原菌でも日本人の免疫が弱まったせいか発病するようになってきています。それなのに流通の発達でなんでも新鮮なうちに運ばれているという感覚からさまざまなものを生で食べるメニュウが登場し、食肉も清潔な成育環境から生まれるようになったためか刺身感覚で生肉を食べるのも流行っています。しかし、2011年、ユッケを食べて6歳の子がなくなったのも記憶に新しいですね。生肉を食べるには料理する人に危険を避ける知識が必要です。食材の素性が知れない場合や作り手が分からないものは食べない方が無難かと思います。なお、2012(平成24)年より牛レバーを、2015(平成27)年からは豚の生レバー、生肉は飲食店では提供してはいけないことになってます。

でも、こうして食べなくなったら食べなくなったで、安全に生で食べるための知恵もなくなってしまうのが惜しい様な気もします。いえ、私は食べませんけどね。ふぐにしてもなんにしても果敢に挑戦してはたくさんの人が死んで現在の食にたどり着いてるのが食の歴史とも言えます。いえ、私は食べませんけどね、生レバー。
長くなりました。豚料理については次回に。

 

 

 

 

 

第8回 料理自慢

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新聞小説を追いかけて、毎日とは言わなくても隔日位で更新しようと思っていたのに、あれこれ忙しくしているうちにひと月たってしまいました。重い腰を上げようやく着手し、ほぼ書き上げた第8回。完成寸前に消えてしまいました。なぜ?と叫んでも戻ってこない。此の世に起こることはすべて意味があるということも聞きますが、この現象にも意味があるのでしょうか?気を取り直して、最初から書き直しです。徹夜になりそう。

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牛歩豚行の大原満は心に未来の創造を描き嬉しそうな顔をして中川家の格子戸をあけた。まだ案内も請わぬ先から主人の中川がふすまを開いて「大原君、待っていたぜ。今日は君がきっと来るだろうと思って待っていたところだ。もし来なかったら呼びに行こうと思ったくらいだ。マア、上がり給え」と、その元気の良い様子。大原は心に期すところがあったので一入(ひとしお)嬉しく、ゆっくりと上に上がって座敷に通り「中川君、まずおめでとう。時に今日はどういうわけでそんなに僕を待っていたのだ」ときいた。

「そのわけはね、このたび僕の妹が国から出てきたんだ。これが妹だよ」と話半ばにまず妹を紹介した。紹介されぬ先よりその人の顔を穴の開くほど眺めていた大原は書生風な態度を改め、俄かに居住まいを正し慇懃丁重に両手をついて初対面の口上を述べ「ありがたい訳だね。君の御令妹が御上京だから僕を待っていたとは実にありがたい。即ち天意ここにありかな」と言った。

「ナニ」

「イイエさ、僕も早く来ましょうと思ったけれども小山君の処へ寄って遅くなったんだ」

「そうだろうと思ったよ。僕の妹は料理自慢だ。長崎あたりの習慣で、女の子には料理を充分に仕込むのだが妹は国の料理を習ったほかに神戸や大阪で和洋の料理も少しずつ研究したんだ。今日は幸い長崎の豚料理をこしらえたから誰かにご馳走したい、せっかく御馳走するなら張り合いのある人に差し上げたいというのだが、物をご馳走して張り合いのあるのは君の他にないからね。そこで、君を待っていたのだよ」

「オヤオヤ、少し当てが違った。なんだ、少し都合が悪いよ。僕は小山君の処で南京豆のお汁粉というものを腹いっぱい食べてきた」

「あれをやったかい。僕も毎度御馳走になるけど少し食べると非常に美味いが何しろ脂肪だから食べすぎると胃にもたれるね。あの奥さんが君の食べるのを面白がって無闇に勧めたろう」

「勧めたことも勧めたが僕も美味いからずいぶん食べたよ。大きな丼鉢で三杯平らげた。後で気分が重たくなって立つこともできない。ここへ来るのも漸く歩いたくらいだ。」

「ヤレヤレそれは生憎だったね。せっかく君にご馳走しようと思って楽しみにしていたのに、妹もさぞがっかりするだろうよ」

「いや、そう思うだろうが、ほかの人の御馳走ではもう一口も食べられないが、妹さんのお手料理と聞いては腹が裂けてもこのままひきさがれんよ」

「では食べるかい、相変わらずえらい勢いだ。僕もまだ飯を食ってないから一緒に食べよう。お登和やさっそくここへお膳をだしたらいい」

「はい」と言って妹は台所に行って下女とともに大きな食卓を運んできた。食卓の上には見慣れない料理が皿にうず高く並んでいた。大原は先ず鼻を蠢かし(うごめかし)「どうもよい匂いだ、何とも言えん美味そうな匂いだ。豚は不味いものと思っていたが料理次第でそんなに美味くなるものかね」と聞いた。

「美味くなるとも、牛肉の上等なところよりもなお美味いよ」

「まさか」

「いいや、事実だよ」と熱く語ろうとするとき、お登和が小声で「兄さん、お酒をつけますか」と聞いた。

「そうだな、少しつけてくれ」

御馳走には必ず酒がつきものだ。悪い習慣である。

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料理上手というわけではないが、うちの母はお客があると食べろ食べろ、飲め飲めと勧めるのを一番のもてなしと思っている節がある。これを広島弁で言うと「食べんちゃい、食べんちゃい」「飲みんちゃい、飲みんちゃい」となるわけだけど、もう十分、要らない、と断っても「あーそうね、おなか一杯ねー」と片付ける端から、これはどうねとしつこく何か持ってくる。父も「もういらんって言ってるじゃあないか」と母を諌めながらも自分は自分でそれよりこれはどうか?とやはり勧めるのだ。

私が結婚したころ、父が夫を焼肉に連れて行き、まあ遠慮するなとあれこれ勧め、妻の父の勧めを断れないままに無理して食べ続け、帰りの車でついにおなかが爆発したことがある。ハンドルを握りしめ「大丈夫?どこかトイレに寄ろうか?」と聞く私に「い、いいから、早く、車を出して」と夫。助手席で背筋を不自然に延ばして座っている夫と「だいじょうぶ?」「いいから、は、早く!」という応酬を繰り返しつつ夫の額には油汗がにじみ、40分間車中地獄絵図であった。

両親は昭和ひとけた生まれの戦中派だ。一体この世代の食に対する執着は、戦中戦後の食糧難を体験したことによる飢餓感があるからだとは思う。しかし、さすがに戦後70年、飽食日本の生活も長くなり、これが嫌ならあれを、「パンがなければブリオッシュを」と不遜に選べる生活も長くなったのだから飢餓感も癒えたのではと思っていたのだが、先日久しぶりに母と二人でデパ地下で買い物をし、お茶でも飲もうと売り場が見渡せるカウンターで一休みした時、母が「それにしてもこんなにたくさんの物が売れるのかねー」と言った。そして、「売れんかったらどうなるの?」と聞くので、まあ、捨てるしかないんでしょうね、と答えたら曖昧な表情で「ふうん」と小さい声で返事をした。母の目は売り場の賑わいを通り越して何処か遠くを見ているようだった。

 

何かが間違っていると思っているのだと思う。私ですら、広島から上京した時、池袋西武の地下のケーキ売り場を見て驚愕したのだ。こんなにたくさんのケーキが一日で売れるのか!1982年、もう34年も前で狂乱のバブル時代前夜のことだが、その頃にして、トウキョウの豊かさは目を見張る様であった。そして、その大量のケーキを、売れ残ったら捨てると聞いて2度驚愕した。これほどの豊かさが、何かを犠牲にせずに成り立つとは思えなかった。どこかに、しわ寄せが行っているに違いないと漠然と思ったのを覚えている。


さてさて、豚は不味いものだと思っていた、と大原が言ったこの日を1903年とすると、これから30年の間に飢饉といわれる不作が何度かあり、今のところ日本史上最後の飢饉といわれる東北大凶作がおこったのが、1933年。この飢饉も遠因の一つとなって日本は豊かな土地と人口政策のために中国に進出し、日中戦争の時代となって米の配給が始まるのがその8年後、その前年より砂糖も切符制になり、1944年には配給も止まり、日本人が砂糖を自由に買える様になるのは1952年。戦後の食糧増産高度経済成長を経て、はじめてお米が余るようになるのが1971年である。ここまで68年。食生活はさらに豊かになり、ファーストフード、外食の一般化、様々な流行り廃りを経て、食品偽装や食の安全を脅かす事故もありの、で、今や6人に一人の子供が貧困で苦しみ、2015年、夏休みになったら給食がないために痩せる子供が散見されるようになっているという。ママ、大変だよ、この子たちにこそ社会が「食べんちゃい、飲みんちゃい」の猛攻をすべきじゃないの。

 

食道楽を読むと百年前の日本の食生活が分かる。そしてこの百年の間に、日本の食糧事情は上がって、下がって、どん底からてっぺんまで行ったけど、再び下がり始めたのかな?という気がしてくるのだ。国益という言葉が耳に着く昨今だが、子供と国民の健康を守らずして何の国益か、と思う今日この頃なのである。

 

 

第7回 大食家

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中川と呼ばれているのは2年ほど前に大学を卒業し、今はある文学雑誌の編集に従事している人物だ。下宿住まいも不自由だということで去年新たに家を借り、下女を雇って世帯を任せていたが、これも何かに不便が多いので、国元より妹を呼び寄せて女房のできるまで家事を任せ、適当な相手ががあれば東京で嫁入りさせようという考えである。兄の中川は年始回りより帰って来て衣服を着替え「お登和や今日の豚料理はどうだね、美味しくできたかい」ときいた。

「ハイ、先日よりも良くできました。暮れに小山さんとおっしゃるお方がいらっしゃった時のは肉が悪いせいでございますかまことに不出来でしたが今日のはお兄さんが好い肉をお探し下すったおかげで核になんぞは長崎でこしらえるように出来ました」

「そうか、それは何よりだ。よそで頻りに夕飯を食べて行けと勧められたけれどもお前の料理が出来ているだろうと思って何も食べずに戻ってきた。そんなにうまく出来たら誰かを呼んで御馳走したいね。ご馳走しても張り合いのある人に食べさせたいが、エート、もしや私の不在中に大原満(おおはらみつる)という人は年始に来なかったかい」「イイエ、まだお見えになりません」

「では今に来るかもしれない。その大原というのは同じ学校にいた友達だが校内随一の健啖家で、その男の、物を食べるのには実に驚く。賄征伐(まかないせいばつ=寮の食事などで、残った食事を食べてかたずける)をやるときにはひとりで七、八人前を平らげるという剛の者だ。鰻の丼なら三つ以上五つぐらい食べなければ承知しない位の大食家だ。あの男にお前のこしらえた豚料理をご馳走したらさぞ喜んでたべるだろう。どうだね、御馳走はたくさんあるかい」

「ハイ、もしやお客様でもあるかと思って二、三人前は余分をこしらえておきました。それに残りましてもみんな二、三日は持ちますから」

「それならいいが、しかし、大原にウンと食べられたら二、三人前では足りないかもしれん。少なくとも五人前くらい用意しておかなければ安心できない」

「オホホ、大変なお方ですね。定めしお体も大きくっていらっしゃいましょう」

「イイヤ、体も大きくはない。太ってはいるがむしろ小男の部類だ。その代わり腹ばかり太鼓のように膨れている。ビールの看板にありそうなゆったりとした腹を持っていて普通の洋服ではボタンが合わないで仕立て屋がズボンの仕立てに閉口するくらいだ。その大きな腹は残らず胃袋だから驚くさ。外(ほか)の人の体は五臓六腑の中に胃袋もあるというのだけれども、あの男の腹は胃袋の周囲に外の臓器が居候しているようだ。難にしろあの男に豚料理を食べさせたいよ。はやく来ればいいな」

「もしや外でご飯を召し上がっていらっしゃるといけませんね呼びに行っておあげになったらいかがです」

「まだ下宿生活をしている人間だから今頃家にいる気遣いはない。ことによったら小山君のところへ寄ってそれからここへ来るかもしれない。オヤオヤ来たぞ、門の外にバターリバターリと重そうな足音が聞こえる。あれは大原に違いない。腹が大きくて速く歩けないから急ぐときでも豚が歩くようだ」と噂を聞いて興味を持った妹は、どんな人なのだろうかと好奇心から早く見たくなり、窓の格子戸へ顔を当てて「兄さん、きっとそうでがざいますよ」と言った。

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朋友中川の料理上手な妹に逢おうと心急ぐ大原満、ひどい言われようですが、大きなおなかをゆすりつつやってきたようですね。でも大食漢大原ことをあれこれ言う中川に悪意はなさそうです。あくまで料理をその趣旨を理解しつつたくさん食べてくれることが大切。妹の料理の価値も分かってくれるだろうと、そういう意味で中川も料理自慢です。

この中川、作者の弦斎がモデルのようです。そして妹のお登和さんは弦斎ご自慢の十七歳年下の妻、多嘉子がモデルと言われています。


というわけで、豚料理です。

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江戸から明治で肉食が解禁普及していったのは、まず牛肉で、豚肉をたべることも、中華料理も一般的ではありませんでした。この時代、肉と言えば(江戸時代から食べられていたイノシシなどの獣肉食は除き)牛肉で、その牛肉にしても、ご食事と言えば、ご飯とみそ汁、お漬け物、おかずも野菜の煮物、魚といった一般庶民の食事とはまだ距離がありました。孫引きですが、昭和女子大学食物学研修室編『近代日本食物誌』によると、牛肉と豚肉が対等に扱われるようになるのは明治末期とのこと。豚肉は臭いと思われて敬遠されていたようです。

また、中華料理というものも南京街の中国から来た人々の料理という感じで、まだ一般的ではありません。日本における中華料理の歴史にも興味深いものがありますが、家庭に普及したのは、戦後NHKの今日の料理で、活躍した陳健民さんの力も大きいと思います。

ちなみに昭和40~50年代西日本でに子供時代を過ごした私は、うちで食べる肉と言ったら牛肉で、豚肉餡の入った中華まんはぶたまんと呼んでいましたし、大学進学で上京して初めて豚の生姜焼きを食べて感激しました。

確かに、豚肉、特にばら肉のような厚い脂が覆っている部位はしっかり下茹でして脂を落として、きれいに洗い、それから調理するのが臭みを取るコツと言えましょう。

そんななじみのない豚を軽々と調理するお登和嬢は長崎出身。長崎は鎖国中の日本において海外と接する唯一の窓口、肉食、砂糖をはじめ、豊かな食材、外国の料理法を体験できる場所として日本では食の最先端の土地であったのだと思います。前回の第6話でもお登和嬢が長崎出身であることがお嫁さん候補として大きなポイントになっています。その和洋中が混ざり合い、異国情緒豊かなそれらの料理は長崎の郷土料理、卓袱(しっぽく)料理として旅行者の目と舌を楽しませています。

 

そうして時代は流れ、現在我が家で作る煮豚と言えばこれ、タイ料理の「ムー・カイ・パロー」です。もともとは中華料理の煮豚から来たのだと思いますが、豚ばら肉と玉子をシナモンや八角パクチーコリアンダー)の根っこの入った甘辛い煮汁でこっくりとたいたもの。さらりとしたタイのジャスミンライスにかけていただくと、気分はバンコクの屋台です。

難しく考えないで、スーパーで売っている煮豚のたれに、八角やシナモンを入れて炊けばかなりそれらしくなります。お好みでパクチーを添えて召し上がれ。

 

豚肉が珍しく、敬遠されていた時代から、中華料理が普及するのに50年。家庭でタイ料理を作るようになるまで、約100年ですね。

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つづく